大河ドラマでは描かれない「平安時代のトイレ事情」
厠の場所とそこで起きた事故
栄華を極めた藤原道長の土御門殿(つちみかどどの)が寛仁2年(1018)に再建された際、必要な家具、調度類の一切を源頼光が寄進して衆目を浴びました。『小右記』によると、その中に「御大壺一雙(いっそう)、御樋一具」とありますが、いずれも道長・倫子(りんし)夫妻用の便器でしょう。 土御門殿に備えられた樋殿の具体相は判りませんが、道長が足に針を踏み立てて、歩けなくなったことがありました。そのとき道長は、円座(えんざ)に坐ったまま曳いてもらって「隠所」へ行ったといいます(『小右記』)。足の具合は1年ほど思わしくなく、「厠」から戻る時に誤って階(きざはし)から地上に落ちているのです(『小右記』)。 そのことを道長は、自身の日記に「北屋の打橋(うちはし)より落ちる間、左方の足を損ねる、前後不覚なり」「夜の間、足腫れて痛く、為す方を知らず」と記しています。 『小右記』の作者、藤原実資がいう「隠所」「厠」は、道長のいう「北屋」ないしその一郭にあったトイレ施設を指し示しています。それは土御門殿の北の対(北の建物)ないし西北の対(西北の建物)あたりにあったものでしょう。 このように貴族の邸内には、御樋殿が設えてありましたが、そこに貯まった糞尿は、外の水路から暗渠(あんきょ)で引き入れた側溝を通して外へ流していたのです。 先述の宮中の汚穢(糞尿も含む)や厠の清掃の事例をはじめ、弘仁6年(815)の公文書がそのことを暗示しています。それは、築地を穿って水を引き、道路を水浸しにすることを禁じ、汚穢が見える形で流すことも禁止し、穴を掘って樋を設けて水とともに流すよう命じたものです(『類聚三代格』)。 ところで道長と同じように、便所に行く途中で倒れるという事例が他にも見られます。寛弘元年(1004)の冬、帥中納言(そちのちゅなごん)こと平惟仲は「厠」を出る時に転倒し、腰を骨折して動けなくなり、喋ることもできなくなりました。そして陰嚢が腫れて前後不覚に陥り、数カ月後に他界しました。これは任地の大宰府でのことでありました(『小右記』寛弘2年〈1005〉2月8日条、『日本紀略』3月14日条)。 さらに三蹟の一人、藤原行成は不調のなか夜中に「隠所」に向かう間に転倒し、一言も発せずに頓死しています(56歳、『小右記』万寿4年〈1027〉12月5日条)。奇しくも藤原道長と同じ日の死でありました。 厠の場所に話を戻しましょう。万寿元年(1024)9月、後一条天皇は、関白太政大臣・藤原頼通の高陽院(かやのいん)へ行幸し、盛大を極めた競馬(くらべうま)を見物されました。『栄花物語』では「こまくらべの行幸」として一巻をこれに充て、『駒競行幸絵巻』という絵画資料も存在するほどに有名な催しでした。 この日の『小右記』に「艮(うしとら。北東)の角一間に御簾を懸け、御粧物所(およそものどころ)と為す」とあり、馬場殿の東北隅に御粧物所(御樋殿)を仮設しています。 また長久元年(1040)、後朱雀天皇が叔父の内大臣・藤原教通(道長の子)の二条第へ遷御されたときのこと。この邸では寝殿を南殿(紫宸殿)とし、南の対(南の建物)を御在所に充てたことにともない、そこに御湯殿と「御樋殿」を設けています(『春記』)。このように、目立たぬ生活空間の西や北に便所と水回りの施設を配置することは、よく見られる現象です。