大河ドラマでは描かれない「平安時代のトイレ事情」
平安時代というと、大河ドラマ『光る君へ』で描かれるように、華やかな貴族たちの世界が思い浮かびます。しかし、そんな彼らもやはり人間。用を足していたことに変わりはありません。果たして、平安時代のトイレはどのようなものだったのでしょうか。しばしの間、臭い漂う平安の世界に、お付き合いくださいませ。 【画像】高足駄を履き、用を足す人々が描かれている『餓鬼草紙』
トイレ事情がはっきりしない理由
以前、メディア関係の人からこんな電話をもらったことがあります。「今、貴族社会を扱ったドラマに関わっているのですが、トイレのことがはっきり解らないのです。日記などにも書いてないようですが、なぜでしょうか」と。 そこで私は、「あなたは日記にトイレのことを書きますか。昔の人も今の私たちも考えることは一緒ですよ」という返事をしました。すると先方は何も言わず、「ありがとうございました」と。 しかし私も、平安時代の人々はトイレをどのようにしていたのか、知りたいところではあります。調べてみると史料が皆無というわけではなく、断片的な情報を得ることができました。これらを手掛かりに、平安時代のトイレ事情を少し探ってみることにしましょう。 なお、発掘調査による考古学上の成果に見るべきものはありますが、残念ながら平安京に関しては明確な遺構が確認されていません。従って文献の面から探っていくことにします。
天皇の住まう宮中では...
人が生きていくうえで大切なことは、物を食べて排泄する、この繰り返しといってもよいでしょう。排泄するには場所が必要で、現代人はそれをトイレ(便所、厠〈かわや〉)と呼んでいます。 普通、美味しいものが胃を通過すると汚物と化すため、排泄所は人目の付かない場所に設置されます。平安時代の文献に「隠所(いんじょ)」の語があり、それがトイレに相当します。 それでは宮中のトイレはどうだったのでしょうか。 平安宮(大内裏)内の内裏図を見ると、東北隅にある華芳坊(かほうぼう)の南に所在する南北に長い建物に、「御樋殿(おひどの)」と書き込みがあります。これはトイレを指し、江戸時代の有職故実家が書いた『大内裏図考証』によると、御樋殿の南面と西面には塀がありました。 またその書は『延喜式』(律令の施行細則)を引用して、徒役人(ずえきにん。徒刑に服した人)が囚人らを率いて宮城の四面を掃除させ、雨の翌朝には宮内の汚穢(おわい)や厠の溝などを清掃させていることを挙げています。 この囚人による雨の翌朝の厠の掃除は、平安時代にはじまったことではなく、すでに奈良時代初期に行なわれていました。 内裏の西には、即位式をはじめ国家の重要儀式を行なう朝堂院があり、その正殿が大極殿(だいごくでん)です。久寿2年(1155)、ここで後白河天皇の即位式が行なわれ、その様子を記す『兵範記』に図が載っています。 それによると、大極殿の北の昭慶門(しょうけいもん)東の一郭に、「御樋殿 立五尺屛風一帖」の書き込みが見られます。御樋殿には屏風を立てたことがわかり、おそらくその中に、樋筥(ひばこ。いわゆる便器)を置いたのでしょう。 天皇が暮らす清涼殿(せいりょうでん)では、北方の滝口のあたりに御厠殿(みかわどの)、御装物所(おんよそおいものどころ。御樋殿)が備わっていたので(『延喜式』『西宮記』『江家次第』)、天皇はここを用いたと考えられます。 そして毎朝、樋洗(ひすまし)・御厠人(みかわやうど。宮中で雑用に従事し、主として便器の管理にあたった下級女官)らが、華芳坊南の御樋殿に尿・便を捨てに行ったのです。 天皇の妻である中宮はじめ上級女性の場合、各々の部屋にトイレがあったかは定かではないですが、説話などにそれらしき記載もあります。そしてその多くは、持ち運びの出来る御虎子(おまる)、大壺(おおつぼ)、虎子(おおつぼ)、清筥(しのはこ)、尿筥(しのはこ)、尿筥(しとづつ)といった便器に排泄し、毎朝、長女(おさめ)・御厠人ら下級女官が、内裏東北隅の御樋殿に持っていったのです。 また『源氏物語』(「須磨」の巻)には、「まして常に参り馴れたりしは、知り及びたまふまじき長女、御厠人まで」とあり、彼女たちは源氏が見知るはずもない身分低い女性であった、とあります。 かの清少納言は『枕草子』のなかで、積雪で作った雪山を子供らが崩さぬよう注視させたり、手紙を届けたり、犬が蔵人(くろうど)に打ちのめされているのを報告に来たり、と使い走りをしている「すまし」「長女」「御厠人」の姿を記しており、「物の数でもない賤しい者」と見下しています。