「性的弱者を理解できない人」が、社会に一定数存在する根深い理由
自らの「性」に違和感があるのは悪いことではない
2つ目は、「性」を内省することの必要性ということです。みずからの「性」の有り様、つまり、性同一性(Gender Identity)、性役割(Gender Role)、性的指向(Sexual Orientation)などをまじめに考えることによって、人は自分の「性」の中に存在する微妙な引っかかり、違和感を知ることができます。 そして、その違和感をどのように処理するか、どういう方法で解消するか、あるいはそれを抱えたまま折り合いをつけるか、あきらめてしまうかを考えるのです。そのための方法を模索することは、人が生きていく上で大事なテーマのひとつになります。 「性同一性」とは、簡単に言えば、自分のことを男と思っているか、女と思っているかということ。「性役割」は、社会の中で男女どちらをしているかということ。「性的指向」は、男女どちらを好きになるかということ。 残念なことに、日本の学校教育には、自分の「性」についてじっくりと考える機会がほとんどありません。性教育の授業で教えられるのは、妊娠の仕組みと避妊の仕方くらいでしょう。それもかなりレベルの低い、まどろっこしい知識の提供です。 考える機会がないので、自分の「性」の引っかかりに気づかない、気づかないから考えない、の悪循環です。自分の「性」に引っかかりがあること、違和感があることは悪いことではありません。「何か友達と違うんだよな」「どこかしっくりこないんだよね」と悩み、考えることは、その時はつらくても、けっして無駄ではないのです。私も若い頃ずいぶん悩みましたが、そのおかげで今、こうして皆さんにお話しできるのですから。
性別二元社会の仕組みを知る
3つ目は、性別二元社会の仕組みを知るということです。現代日本は、性別二元社会です。人は社会の中で男であるか、女であるかを求められます。男女どちらでもないことはほとんど許されません。こうした性別二元社会はジェンダーを二分化する装置であり、その二分化されたジェンダーを前提としたセクシュアリティに関わるさまざまな装置に満ちています。 それらの仕組みを知り、そのからくりを見破ることは、性別二元社会の中をいたずらに流されず、自分の心地よいジェンダー&セクシュアリティの有り様を見つけ出すために必要なことだと思います。 「ジェンダーを二分化する装置」と言うと難しく聞こえるかもしれませんが、「仕組み」と言い換えてもいいでしょう。たとえばトイレです。男性か女性か2つの入口しかありません。トイレに入ろうとする人は否応なくどちらかを選ばざるを得ません。トイレという「装置(仕組み)」によって人は2つに分けられることになります。 20年ほど前、あるニューハーフさんが言っていたギャグに「トイレ、どっちに入ろう? と悩んでいたら、真ん中にドアがあった。あっ、ここがあたしのトイレだ! と思ってドアを開けたら、モップやバケツが出てきた」という話があります。 昔、掃除用具入れだったところに、今は「多目的トイレ(東京都の名称は「だれでもトイレ」)」が設置されるようになり、トランスジェンダーのトイレの悩みはだいぶ減りましたが、その「多目的トイレ」すら、男女別に設置しようという動きがあるわけで、社会の性別二分化圧力は、いまだにかなり強いものがあります。 「二分化されたジェンダーを前提としたセクシュアリティに関わるさまざまな装置」というのは、こんなことをイメージしてください。新宿歌舞伎町のキャバクラの前を女性が通れば、呼び込みのおじさんに「お嬢さん、面接していきませんか? 今日、店長いますから」と声をかけられます。それに対して、男性が通れば「お兄さん、今の時間なら3000円でいいですよ」と呼び止められます。女性は従業員(キャスト)候補として、男性は客候補として扱われます。 さらに言えば、それがホストクラブの前なら扱いが逆転するわけです。つまり、接客をともなう、セクシュアリティへの期待を抱かせる酒場という「装置(仕組み)」では、ジェンダーによって明確に役割が異なってくる、ということです。 こうした男女二元システムの中では、最近増えている「Xジェンダー」とか「ノンバイナリー」と言われる男でも女でもなく生きたい人たちは、常に男女「どっちなんだ?」という圧力にさらされ、とても生きにくいのです。むしろ、私のようにトランスジェンダーで、生まれ持った性とは違っても、どちらかの性に帰属してしまったほうがまだ生きやすいわけです。 学ぶことの最終目的は自分自身のためです。「自分の心地よいジェンダー&セクシュアリティの有り様を見つけ出す」ことは、ジェンダー&セクシュアリティについて学んだ成果を、他人事ではなく自分の人生のために役立てるということです。言い方を換えれば、客観的に考えると同時に、自分に引き付けて考えてみましょうということです。