「タバコの煙が充満するバス」「選手の住所が載っていた選手名鑑」…今では考えられない昭和プロ野球の“常識”
時代が移り変わるにつれ、感覚が変化していくのは至極当然の話。昭和を生きていた人々からすれば、明治の文化・風習に違和感を持っていたのではないか。我々に置き換えれば、昭和時代では当たり前でも、今では非常識とされていることはいくつもある。具体的な例を挙げ、「Z世代の若者の反応を見る」なんて番組も珍しくない。 本記事もそういった流れに乗って、牧歌的だった“昭和のプロ野球”を紹介していきたい。話を聞いたのが、元プロ野球選手の湯上谷宏氏(58歳)。同氏は、昭和59年(1984年)のドラフト会議で南海ホークスから2位指名でプロ野球の世界に入り、平成12年(2000年)に福岡ダイエーホークスを引退。その後、福岡ソフトバンクホークスのコーチなどを歴任し、昨年まで社会人野球チームのコーチを務めた経歴を持つ人物。 昭和から平成・令和と、3つの時代で野球にかかわってきた彼に、当時の出来事を振り返ってもらった。
移動は「タバコの煙が充満するバス」
――昭和と今で大きく違うもののひとつが喫煙環境かと思います。プロ野球の世界も以前は喫煙は当たり前でしたか? 湯上谷宏(以下、湯上谷):そうですね。南海にいた頃は選手の半分くらいが喫煙者だった印象です。移動のバスでも。50人くらい乗っているうちの20~30人が吸っていたので、車内は煙がモクモクしていました。 ――当時は新幹線などでも喫煙OKでしたからね。吸わない人には辛い環境でしたよね。 湯上谷:チームが南海からダイエーに変わって、西武ライオンズからトレードされてきた内山(智之)投手は、かなりタバコが嫌いでしたね。バスの一番後ろの席で窓を開け、ずっと外の空気を吸っていたのが印象に残っています。そういえば、バスの窓も今は開かないですね。 ――今は移動のバスも禁煙が当たり前ですが、いつ頃変わったんですか? 湯上谷:いきなり禁煙車になったわけではなく、過渡期がありましたよ。喫煙バスと禁煙バスの2台になったんです。ダイエー時代なので90年代半ばですね。