<徳川家康はどんなリーダーだったのか>信長と家臣とのやりとりから見える英傑の一面とは
〝調整型リーダー〟家康の一言
信長は、姉川の戦いの前日に開いた軍議で、翌日の役割分担を告げた。 「1番合戦(第1陣)は柴田勝家、明智光秀、森右近。家康殿には2番合戦(第2陣)をお願いしたい」 家康は援軍、いわば客分なので、信長が気をつかったこともあり、妥当な扱いといえたが、家康は不満を表明した。 「是が非でも、第1陣を仰せつかりたい。先陣は我ら徳川勢にお任せあれ」 信長は、家康の決意のほどがわからなかったから、こう告げた。 「1番も2番も同じではござらぬか、徳川殿。2番といっても、合戦の推移にともなって1番になることも多いのだから、ここはひとつ、2番をお頼み申す」 信長にそこまでいわれても、家康は承知せず、「加勢を仕る以上、末世まで2番と語り伝えられることは迷惑至極でござる。とにもかくにも、1番陣を仰せつけくだされ。そうでなければ、明日の合戦には出陣いたしませぬ」。 まるで駄々っ子のような言い草だが、「愚直に生きる」を信条とする家康は、死を覚悟して参戦していたのだ。 家康が1番にこだわるので、信長の家臣のなかには「家康殿の1番は迷惑」と異を唱える者が出たが、信長は「推参者ども、何を知った風なことを抜かす」と一喝、家康の1番陣が決まったと『三河物語』は記している。 ところが、『三河後風土記』によると、一夜明けた決戦当日の朝になって、信長は豹変、家康に使いを送って、心中の変化を伝えさせたという。 「昨夜、軍議で決めたものの、わが怨みは浅井長政にあるので、この信長自身が浅井を討たねばならぬ。徳川殿は朝倉を討ってくだされ」 そばにいた徳川四天王の一人、酒井忠次は、ひらめき重視の〝臨機応変型リーダー〟信長の朝令暮改を知って、不満たらたら。思わず泣きを入れた。 「殿、わが方の兵はすでに浅井勢に向っております。それを今になって急に陣備を変えたりすれば、隊伍が乱れてしまいます」
すると家康は、涼しい顔で、こういって酒井をなだめたという。 「よいか、忠次。浅井は小勢、朝倉は大勢だ。大勢へ向かうのが勇士の本領ではないのか。ここは黙って織田殿の仰せに従うのだ」 家康が「調整型リーダー」としての本領を発揮した瞬間だった。 いうべきときは、とことんいう。いうべきことは、はっきりいう。だが、相手の言い分にも聞く耳をもち、場合によっては自説を曲げる。そういう融通無碍(ゆうずうむげ)な生き方も家康は是としていたのである。