<徳川家康はどんなリーダーだったのか>信長と家臣とのやりとりから見える英傑の一面とは
映画『もしも徳川家康が総理大臣になったら』が7月26日に公開される。総理大臣が急死し、政府がAIで復活させた歴史上の偉人たちで最強の内閣を作るといったストーリーだ。乱世を生き抜いた英雄たちが集結する夢のような内閣が、コロナ禍で混乱に陥った世の中に立ち向かっていく。 徳川家康といえば「ホトトギスが泣くまで待つ」ような温和なイメージを持たれることが多いが、実際にはどのような人物だったのだろうか。「姉川の戦い」に際して織田信長や家臣に対する発言から、リーダーとしての家康像を探る。2023年1月29日に掲載した『徳川家康は「調整型リーダー」多様な決断と統率の姿』を再掲する。 英雄は、とかく「型」にはめられがちだ。織田信長は「直情径行型」、豊臣秀吉は「ひょうきん型」、徳川家康は「忍従型」とか、信長は「天才」、秀吉は「人たらし」、家康は「温情家」という具合だが、誰にも多面性があって、いつも同じ型とは限らず、ときには「意外」と思える一面を見せて驚かせることもあるのだ。 たとえば、「姉川の戦い」の前日の軍議で、家康が信長の意見に忍従することなく、「第1陣(先陣)」に固執して譲らなかった場面もそれだろう。 家康の生涯の合戦体験は、17歳の初陣から74歳の大坂の陣まで「大小含めて48戦」と『名将言行録』は書いているが、57戦という説もある。 大合戦とされるのは、桶狭間の戦い(19歳)、三方ヶ原の戦い(31歳)、小牧・長久手の戦い(43歳)、関ケ原の戦い(59歳)などだが、「姉川の戦い」(29歳)もその一つだった。 姉川は、北近江を流れて琵琶湖に注ぐ川幅約100メートル、水深1メートル前後(当時)の浅い川である。その川を挟んだ1570(元亀元)年6月の戦いを、参謀本部編纂『日本戦史』は「姉川役(あねがわのえき)」と呼んで、こう説明している。 「桶狭間役(おけはざまのえき)の後十年にして姉川役あり。織田信長は徳川家康とともに南軍を成し、浅井長政も朝倉義景の将士とともに北軍を成し、江越(ごうえつ)、濃尾(のうび)、参遠(さんえん)等数州の兵、相会して一地(いっち)に対抗す。また著名の大戦なり」※江越は江州〈近江国〉・越州〈越後国〉、濃尾は美濃国・尾張国、参遠は参州〈三河国〉・遠州〈遠江国〉 姉川の戦いは、地理的には「南軍・北軍の戦」で、「織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍との合戦」をいうが、当初はそういう図式ではなく、「信長の妹(お市の方)の夫、浅井長政も信長側につき、朝倉を挟み討ちにするから南軍楽勝」との戦前予想だった。 家康も、上洛中の信長から援軍を要請された2月(戦いの4ヵ月前)にはそう思っていたが、戦闘直前に状況が急変する。長政の父久政が「古い付き合いのある朝倉家に敵対することは許さぬ」と強弁し、長政が折れて寝返ったことで状況は一変、苦戦を強いられた。