<徳川家康はどんなリーダーだったのか>信長と家臣とのやりとりから見える英傑の一面とは
信長との刎頸の交わり20年
信長に越前の戦国大名朝倉義景を討つように求めたのは、足利義昭だった。 義昭は、信長の助けを得て上洛を果たし、室町幕府の15代将軍になるが、それ以前には義景に足利家の再興を何度も命じたり上洛を促すなどしていた。しかし、義景がまったく応じず、無視し続けたので、義昭は立腹、信長に朝倉征伐を要請したのである。 信長は、「甲州・越後は強く、美濃・近江は弱い。強いところと結んで弱いところを攻めれば、そこの領地が手に入り、京都への道も開けるだろう」と考えて朝倉義景との戦いに踏み切り、同盟関係にある家康に援軍を求めた。これが家康参陣までの経緯だ。 家康が軍勢5000を率いて浜松を発ったのは3月7日で、4月20日には信長の軍勢3万とともに近江路から若狭に入った。桶狭間の戦いから10年後、軍事同盟を締結してから8年の歳月が流れ、信長は37歳になっていた。家康はというと、奇しくも同盟締結時の信長と同じ29歳だった。 同盟締結から姉川の戦いに至るまでの家康の主な出来事は、次のようだった。 21歳 信長と軍事同盟「清州同盟」を結ぶ 22歳 元康を家康に改名 23歳 前年に発生した三河の一向一揆を平定 24歳 東三河を入手 ※父が殺された年齢 25歳 松平から徳川へ改姓。名実ともに独立 ※祖父が殺された年齢 26歳 長男信康が信長の長女徳姫と結婚。織田家と姻関係に。 27歳 武田信玄と条約を結び、大井川の遠州を入手 28歳 今川氏真(義元の遺児。今川家の後継者)を掛川城から追放 信長との契りは「刎頸の交わり」と評してよいほど強靭で、軍事同盟は信長が本能寺で横死する1582(天正10)年まで、20年もの長きにわたって続くのだ。
姉川の戦いで落とせないエピソードがある。夕刊紙の見出し風にいうなら、「あの信長が敵前逃亡!?」ともいうべき逃走劇を演じた一件だ。のちに「金ヶ崎の退(の)き口」として語り継がれる「姉川の戦いの前哨戦」で、信長が信じがたい行動に走ったのだ。 『松平記』や『三河物語』によると、姉川の戦いの2カ月前の1570(元亀元)年4月、「信長は、家康には何も告げずに27日の宵に撤退、そのことを家康は木下藤吉郎(秀吉)から知らされた」(拙著『家康の決断』より) その戦は激戦で、『三河後風土記(ごふどき)』によると、戦死者は浅井・朝倉軍1700、信長・家康軍800となっているが、『朝倉家記』では信長・家康軍1353を数えた。 姉川の戦いは、「信長が〝反信長同盟〟に与する朝倉義景の征討戦」という言い方もできる。 反信長同盟とは、信長が奉じて上京し、将軍にしてやった足利義昭が、信長の傀儡(かいらい)にされるのを嫌って、利害が一致した武田信玄、本願寺顕如、朝倉義景らに裏で連携を働きかけて形成した信長包囲網を指す。 信長は、仕切り直しをした。再び江北に攻め入り、大軍にものをいわせて朝倉・浅井連合を葬り去ったものの、長政や久政への信長の怒りは尋常ではなく、彼らの髑髏(どくろ)を盃にして酒を飲んだというホラーエピソードが伝わっているほどだ。