「先祖代々の土地が沈む」美しい故郷は巨大ダム湖の底に…国策で立ち退いた300人の「その後」
会津若松(福島県会津若松市)―小出(新潟県魚沼市)を結ぶJR只見線。風光明媚な景色を楽しめる「秘境路線」として知られているが、もともとこの路線の一部は、ダム建設のための資材運搬専用鉄道だった。只見駅から約5キロの場所にある「田子倉ダム」だ。かつては「東洋一」と呼ばれ、現在も稼働を続ける巨大な発電用ダム。1950年代の工事開始前、ここには約300人が住む田子倉集落があったが、湖底に沈むため住民は立ち退きを求められ、各地に離散した。 「死んでもふるさとを離れない」45年間本体未着工の長崎・石木ダム 20年
日本の戦後復興や経済成長と引き換えに、自然豊かな土地を奪われた人々は、その後どうなったのか。つてを頼り、やっと出会えた元住民たちは〝桃源郷〟と呼ばれた古里を今も鮮明に覚えていた。(共同通信=島田早紀) ▽首都圏の経済成長を目的に推し進められたダム計画 田子倉発電所は1954年に着工し、1959年に営業運転を開始。1961年、出力38万キロワットと当時日本一の水力発電所として完成した。現在の出力40万キロワットは、今も一般水力で国内2位だ。5億立方メートルもの水をためることができる。 所有する会社「電源開発」は、政府と9電力会社の出資で1952年に設立。2004年に完全民営化された。今も田子倉ダムで発電した電力の4分の3を東京電力に、残りの4分の1を東北電力に供給している。 田子倉発電所の建設では、資材運搬専用鉄道の敷設も含め、約340億円の費用と延べ300万人の人員が投じられた。冬に4、5メートルもの雪が降る豪雪地帯での工事は困難を極め、43人が命を落とした。
建設計画が具体化したのは終戦後の1950年代。首都圏の経済発展を支えるため、政府は1951年に「只見川特定地域総合開発計画」を発表。只見川流域で田子倉ダムを含む多数のダム建設を強力に推し進めていった。 ▽とどろいたダイナマイト音、震えた窓ガラス 移転前の集落の様子を鮮明に覚えている人がいると聞き、訪ねた。只見駅近くで出迎えてくれたのは新国道子さん(91)。新国さんは8人きょうだいの三女として生まれ、結婚を機に田子倉ダムから約5キロ北東にある只見町中心部に移り住むまで、約20年間を田子倉の地で過ごした。 「田子倉について覚えていることを全て教えてほしいです」と聞くと、新国さんは宙を見つめ「あんな良いところはなかったよ」とほほ笑んだ。「集落の中心には小高い山があって、そこが子どもたちの遊び場だった。夏には川の浅瀬で毎日水浴びをしたんだ」 山には山菜があふれ、只見川をイワナやマスが泳いでいた。山に入ってクマやカモシカを狩る猟師もおり、そんな自然の恵み豊かな土地を人々は「桃源郷」と呼んできた。