「先祖代々の土地が沈む」美しい故郷は巨大ダム湖の底に…国策で立ち退いた300人の「その後」
建設当時、新国さんの母親は建設反対運動の中心人物だった。集落の建物に「金は一時 土は万年の宝」「政治やと電気やのエサになるな」などと書いたビラを大量に貼っていたとされる。 新国さんは懐かしそうに話す。「建設現場にふん尿を投げて抵抗する女性もいた」。大人たちが自宅の囲炉裏を囲み「先祖代々の土地を俺らの代で沈めさせるわけにはいかねぇ」と話し込んでいた姿も忘れられないという。 しかし、建設工事は強制的に進められた。「周囲の岩山がダイナマイトで爆破される度に、家の窓ガラスががたがたと揺れたんだ」 強行突破で進められた工事にあきらめた人、多額の補償金を提示された人…。50戸300人の住民は1人、また1人と移転に応じ、只見町内や東京都、神奈川県など、福島県内外に離散していった。 新国さんの両親らも福島市に移転。新国さんは田子倉が沈む前、壊された自宅を目にした時のことをこう振り返る。「生まれ育った家が上から下までめちゃくちゃになっていた。木々の影に隠れて泣いたら、おぶっていた当時3歳の娘が『母ちゃん、なぁに泣いてるんだ』って不思議そうに聞いてきたんだ」
新国さんは今も定期的に田子倉ダムに足を運ぶという。「行って水の下を見つめても、何がどこにあったのか全然分からなくなっちゃったの。自分の大好きな故郷なのにね」。寂しそうに笑った。 ▽連日SLで大量に運び込まれた建設資材 国鉄に就職し、只見線の保線に携わり続けた只見町内の目黒和之さん(78)も、田子倉で育った一人。小学校4年だった1955年に田子倉を離れた。子どもながら、日々着々と進められた工事の記憶を胸に刻んでいるという。 「通っていた学校の校舎から、大量のセメントや発電機の巨大な部品を載せた貨車が毎日朝と夕方の2回、田子倉の方に走っていくのが見えたんだ」。山間部の急勾配を登れるよう、先頭の蒸気機関車(SL)は重連になっていたという。 田子倉ダムの貯水が始まった1959年には、父親と一緒に電源開発の式典に参加した。「ダムの巨大な水門が『バン!』という音ともに閉まる音を聞いた。まさに田子倉が沈み始めた瞬間だった」。式典終了後に自宅に戻ると、裏を流れていた川の水が枯れ、魚が何匹も死んでいた。