昭和100年 遠くはなったが 時代見つめ直す年にしたい 書く書く鹿じか
降る雪や 明治は遠く なりにけり 中村草田男がこの句を詠んだのは、母校の小学校を20年ぶりに訪れた昭和6年1月である。在学したのは明治の終わりごろで、紺がすりの着物に袴(はかま)姿で登校した。校庭を見つめながら思い出にひたっていると、雪が降り出した。校舎から走り出てきた小学生たちは、金ボタンの黒い外套(がいとう)を着ていた。思わず「明治は遠くなりにけり」と口をついて出た。そう述懐している。 令和6年、昭和も遠くなりにけり、である。 記憶にある昭和の師走は、街にジングルベルが流れ、歳末助け合いの募金活動が行われ、救世軍の社会鍋も見かけた。デパートはボーナス商戦で混雑し、映画館ではオールスターキャストの忠臣蔵が上映された。夜になると、忘年会の酔客がネオン街を千鳥足で歩いていた。 新聞社は新年の別冊の制作で忙しい。社会部時代は、元日の紙面を特ダネで飾れと、デスクからはっぱをかけられた。家の大掃除やおせちなどの買い出しはすべて女房まかせで、年賀状を書くのも年末ぎりぎりになってからだった。 師走や正月の風景は大きく様変わりした。大阪はインバウンド(訪日外国人客)でいつものにぎわいだが、追い立てられるようなあわただしさはない。忘年会も気がおけない仲間同士はともかく、企業の宴会は職場の延長のようでと敬遠され、減少傾向という。もとより退職すると、お誘いはかからないが。 LINEやメールがつながりの主流になって、届く年賀状が減った。僕もそろそろ「年賀状じまい」にしようかと迷っている。しめ飾りをする家も少なくなったし、年始のあいさつ回りなど来てもらうと迷惑だ。 昭和を思い出したのは、今年のユーキャン新語・流行語大賞の年間大賞に「ふてほど」が選ばれたからだ。今年、TBS系で放送され話題になったテレビドラマ「不適切にもほどがある!」の略である。 スパルタ教育が売りの中学の体育教師が、昭和61年から令和6年にタイムスリップし、パワハラ、セクハラの不適切な言動を繰り返して騒動を巻き起こす。僕ら昭和世代には、身近によくいた主人公で、コンプライアンスでがんじがらめの現代に「本当に大切なことは何か」を問いかけて痛快だった。「ふてほど」という言葉がそんなに流行したとは思えないが、昭和に光をあてたのは賞に値する。 冒頭で紹介した草田男の句について、先輩記者の皿木喜久さん(元産経新聞論説委員長)は「遠くなったと感じたのは、明治という時代の『精神』だった。自ら『明治人』としての誇りがこの句に込められていたのである」と書いている。
来年は昭和100年である。「遠くなりにけり」ですまさず、昭和の精神を見つめ直したい。(元特別記者 鹿間孝一)