1900年開業! 九州初の鉄道「別大電車」はなぜ別府に作られたのか? 地域開発の陰に消えた儚い歴史をたどる
電車の息の根を止めた「大分市と別府市の発展」
この頃、別府市や北側に隣接する日出町には新たな役割が生まれた。それは大分市の 「ベッドタウン」 だ。大分市の人口が爆発的に増加するなか、別府市や日出町では宅地開発が活発化。そうした住民の多くは鉄道沿線外に居住してマイカーで大分市に通勤するようになった。 しかし、別府市と大分市をつなぐ国道10号線・別大国道は海沿いとあって当時は道路拡幅が難しく、クルマは片側1車線の狭い道を走るしかなかったため、ラッシュ時や観光シーズンには渋滞が起きるようになっていた。さらに、この車道は国鉄や別大電車よりも海側を走っていたため、台風などによる大波や土砂災害により通行止めとなることが度々あった。 そうしたなか、1971(昭和46)年に 「渋滞緩和のための電車廃線」 の議論が起きた。廃線案は1971年の初めに大分県から大分交通に提案されたもので、水面下で廃止後の交通網整備や大分交通に対する補償のための補助金額なども検討されていたという。
別府温泉まつりで幕引き
末期まで近代化が進められていた別大電車であったが、すでに当時の国内主要都市では、 ・大阪市電(1969年廃止) ・神戸市電(1971年廃止) が全線廃止・バス転換済み、 ・札幌市電(のち一部存続・再延伸) ・東京都電(のち一部現存) ・横浜市電(1972年廃止) ・名古屋市電(1974年廃止) ・京都市電(1978年廃止) などでも路面電車の全線廃止計画が進められていた。末期まで黒字経営だった別大電車であるが、1970年代に入ると赤字に転落。時代の流れには逆らうことができなかった。 1971年12月には大分県が大分交通に対して補助金(補償金)5億5000万円を支払うことを条件として別大電車の廃止を正式に要請。わずか4か月後の1972年4月4日、別府温泉まつりのなか別大電車は72年の歴史に幕を下ろした。 別大電車の軌道はすぐに撤去されて1978年までに道路となったため、21世紀になった現在はその廃線跡を探すことも難しい。
約50年のときを超えて
2024年7月、大分市田の浦の仏崎に開業した道の駅「たのうらら」に、クリーム色と緑色に塗られた1台の路面電車の姿があった。 その電車とは大分交通506号。 別大電車の最後の生き残りだ。 別大電車の廃止から約半世紀たった今、506号はなぜこの地に保存されることとなったのか。 それについては、また別の機会に解説したい。
若杉優貴(商業地理学者)