アフターコロナの日本は「ポスト・アメリカ追随時代」へ
普遍的価値と集団的価値
国家とそこに属する人間の主張には「普遍的価値」と「集団的価値」の二種類があると思われる。前者は、世界の人類という普遍的な価値基準に立脚するもので、国際平和、人権、地球環境などが主要な要素で、自由、平等、民主主義などはこれに準ずる。後者は、国家という生活集団の利益を守る立場によるもので、政治制度の違い、経済関係の偏り、領土問題、歴史問題などの要素において、それぞれの主張がぶつかりがちで、また複数の国家間で陣営化されるケースもある。そしてこの二つの価値は絡み合っていることが多い。 日本という国は現在、選挙によって政治家を選ぶ民主主義、表現と思想信条の自由、人権的平等と法治主義という社会制度において、西側先進国の側に立ち、また立つべきであることは疑う余地がない。しかし歴史的にも地理的にも人種的にも、必ずしも欧米とは一致しない部分が残されているのもたしかなのだ。 とはいえ、アジアの一隅に位置しながら早々と先進国入りし、欧米の帝国主義によって著しい被害を受けたわけでもなく、むしろ短期間だが加害者となり、第二次世界大戦で負けて、二度の原爆を落とされた経験を有するという、ユニークな立場の国である。 そういったどちらの陣営からも少し異なる立場は、これまでこの国の発言をきわめて弱いものとしてきた。しかし考えようによっては、欧米以外の国の発言力が強くなっている今日、その独特な立場を明確にした上での普遍的な見識を示すことによって、強い発言力をもつ立場に転換する可能性もある。 そのためには従来の、常に態度を保留する曖昧な姿勢、論理的な議論を避ける密室的な決定という文化から「開かれた議論の場、普遍的な論理の主張」という文化に転換する必要があるだろう。文化は常に時代に応じた変化を求められるのであり、国民は日本文化を国際的に通用する強度をもつものに鍛える覚悟が必要だ。 もちろん政治的決断が「集団的価値」としての現実のパワーバランスを優先させるのは当然であり、そのことについて国際社会の賛同を得ることは難しくないだろう。しかしそれとは別に「普遍的価値」に関する国民の意思を表明する必要に迫られることがあるのではないか。 場合によっては、その時点での日本国政府と、大半の日本国民の意見にズレがあってもいいような気がする。つまり「普遍的価値」に関しては、政府とは別に意思表明する、日本独特の機関あるいは団体があっても悪くないのではないかと考えるがどうだろうか。 この点においても、欧米に追随する必要はないのだ。