アフターコロナの日本は「ポスト・アメリカ追随時代」へ
もはや「欧米に比べて日本は」という論理は時代遅れ
ここで言いたいことは、「欧米に比べて日本は…」という論理に、現在の日本が持っている世界認識の問題点が現れているのではないかということである。 この論法はこれまで、保守革新を問わず、日本のそこかしこで聞かれる論法であった。僕自身そういう文脈で比較文化論を展開したこともある。この島国の人は、まず日本だけを見る。次に欧米だけを見て、それ以外の国をほとんど無視する。この傾向は、明治以来この国の隠れた特徴で、文明開化とは欧米の真似をすることであり、富国強兵とは欧米に追い着き追い越すことであり、戦後は、アメリカに従属して経済の復興と成長だけを考えていればよかったのだ。 しかし時代は刻々と変化している。もちろんアメリカとの関係は現実の軍事同盟だけをとっても密接であるが、「欧米」という一般概念は、現在の日本にとってむしろ遠いものになりつつある。にもかかわらず、それ以外を見ようとしない視野狭窄が、現在の経済的凋落を招いたともいえ、近隣諸国との軋轢も、その根本に、日本のマスコミを含めた政治指導層における世界認識の遅れがあるのではないか。現在は欧米よりまず、発展と激動を続ける東アジア、東南アジアへの、加えて南アジア、オセアニア地域への視野と論理が不可欠であり、そして世界全体、地球全体への視野と論理が不可欠なのだ。「コロナ以後」は、早く収束した国同士が関係を深めるという考え方もある。そう考えれば、新型コロナウイルスは、これまでにすでに兆候が現れていた日本人の世界観の「時代遅れ」を、ハッキリと露呈させたといえるのではないか。
アメリカの人種差別と香港の二制度問題が試す日本国の見識
さて新型コロナウイルスの責任問題をめぐってアメリカと中国が衝突する勢いであったが、ウイルスの収束をまたずして、両国の内部に大きな政治問題が勃発した。 アメリカでは、白人警官が黒人男性を拘束した際に死亡させたことに対する人種差別反対のデモとその暴徒化、中国では、香港の治安に中国政府が直接関与する「国家安全法」の成立による一国二制度終焉である。そして早くも日本は、政治指導層も、マスコミも、論壇も、この問題への見解と対応を求められているように思える。 しかしこの二つの問題は、比較的近年まで差別的な制度を抱えてきた多民族多文化国家と、巨大な人口と多くの少数民族を抱えながらも共産党独裁を維持する国家における特有の問題であって、地理的にこの二つのあいだにありながらも相当に事情が違う、普遍的論理に疎い島国が、おいそれとコミットできるような問題ではない。しかも相手の政府と国民に矛盾が生じているのだから、その政府を支持すればその国民(一部とはいえ)を裏切り、その国民を支持すればその政府を批判することになる。 こういった問題に対して、これまでの日本は常に曖昧な態度を取り、そして結局アメリカ政府に追従する、というパターンであった。国際社会からは、問題の解決に参加すべき主権国家として相手にされないことになるが、結果としてはそれで何とかなってきた。しかしこれからはそうもいかない状況だろう。 コロナ以後の世界が、米中の長期対立構造を基軸にして動くことはほぼ確実であるように思う。米ソ冷戦時代のように世界が二つの陣営に分かれる可能性もあるし、中国が孤立する可能性もあるし、米国が孤立する可能性も少ないがある。そういった流動的な国際文化力学(単なる軍事力を超えた経済も文化も含めた総合的なパワーバランス)の中で、日本はこれから起きるであろう具体的な国際問題に対して、時をおかず旗幟鮮明にすることを迫られるケースが多くなるに違いない。 つまり日本は否応なく「ポスト・アメリカ追随時代」の入り口に立たされているのだ。実はアメリカ自体がそれを求めてもいる。