沈みゆく島の人たちは「先進国を“許している”」。PwCから一転、バリ島のホテルから気候変動に声を上げる日本人
31階のビルで太平洋の島を想う日々
高校卒業後は、アメリカのボストン大学に進学。国際関係論とマクロ経済学を専攻し、特にビジネスの面白さにのめりこんだ。就活の時期が来るとボストンキャリアフォーラムに参加して、無事コンサルBIG4として名高いPwCの日本支社に就職を決めた。こうして花形のキャリアに心を決めたと思われた濱川だが、またもや国際協力に心を引き戻される出来事が起こる。 大学卒業から入社までの11ヶ月、時間があった濱川は、祖父母にルーツのあったハワイをきっかけに南太平洋での暮らしや文化にもその興味を広げ、トンガやフィジー、サモアへ旅へ出た。南太平洋の島々の暮らしは、決して物質的に満たされているわけではないが、家族との暮らしや今あるもの、伝統や文化を大切にしている。そんな暮らしは濱川にとって「喜びの多い、豊かな生活」そのものに見えた。 一方で、サモアでは地球温暖化の影響による高潮で村が水没し、廃墟になった村を目の当たりにする。先進国の豊かさを叶える弊害を、南太平洋の島々が引き受けているという事実に直面し、ショックを受けた。 だが、日本に帰国後濱川はコンサルタントとして、身を粉にしてビジネスのいろはを学ぶことを選んだ。気候変動に関する活動をするためには、まずは資本主義の仕組みと構造的な問題を理解しなければならないと考えたからだ。 「朝起きて出社して1日17時間働き、タクシーで帰宅。1日のほとんどをオフィスで過ごすうちに、いつの間にか、今の季節も分からなくなっていました。 窓の開かない31階のオフィスで、午前4時に遠くのビルに煌々と灯る明かりをみながら、よく南太平洋の島のことを考えていましたね」
喫煙所での出会い
「ここでやれることはやりきった」 そう胸を張れる3年を過ごし、コンサル企業を退職した濱川は、南太平洋の国々に特化した気候変動の研究を行うためにハワイ大学の大学院に入学する。 気候変動の勉強に励む中で、大学では、濱川が「アース・カンパニー」を立ち上げるきっかけとなった人との出会いもあった。 当時ヘビースモーカーだった濱川は、大学や寮の喫煙所で、東ティモール出身で元難民のベラ・ガルヨスとしばしばタバコミュニケーションを楽しんでいた。ベラは、インドネシア軍の侵略下にあった東ティモールで、43人兄弟のうち紛争で2人の兄弟を亡くし、自身は実の父親に5ドルで人身売買をされた。16歳で少女兵として独立運動に加わり、国外に脱出するためにインドネシア軍に入隊するも、性的・肉体的虐待に耐え抜いた。ユースプログラムの派遣をきっかけに、カナダに亡命し難民となった過去を持つ彼女は、その壮絶な過去を喫煙所で飄々と語った。 2人は、国際政治や資本主義社会の課題、植民地化、独立したばかりだった東ティモールの未来について、煙をくゆらせながら夜な夜な語り合った。 「ベラは、『卒業をしたら国連で働いて、一緒に東ティモールの国づくりをしよう』と誘ってくれました。しかし、私は南太平洋の国々の気候変動のために働くと決めていたため、OKとは言えなかったんです。 しかし、ベラはいつか国を動かす存在になるという確信があった。だから彼女が本気で動き出すときには、私も本気で支援しようと決めたのです」