島崎今日子「富岡多惠子の革命」【2】白い教会の結婚式
◆ケシ粒ルビーの指輪 多摩美の最終学年で受賞したシェル美術賞1等賞の賞金を定期預金していた菅は、その預金の一部を使って、富岡曰く〈ケシ粒ほどのルビーのついた指環〉を、贈った。指輪は、死後、彼女がアクセサリーや時計をしまっていた引き出しから見つかった。菅がすぐにどこかへ消えてしまったと思いこんでいたエンゲージリングを、対談時やインタビュー時の作家が金の結婚指輪に重ねてつけている写真が残っている。 「ほんとうにちっちゃくて、まさにケシ粒ですよ。ひさかたぶりにルビーの指輪を手にとって、当時のことが浮かんできました。小さな指輪で情けない気持ちでしたが、そのころの僕にはお金などまったくなく、ルビーを買えたことは奇跡のようなものでした。芥子粒ルビーで毎日メシ食えるからいいかな、って。でも、それを嬉しそうに多惠子さんはつけてくれたので、ホッとしたものです。今見てもあまりにも小さくて、生きているうちにもっと大きなルビーでもサファイヤでも、買ってやればよかったと後悔しています。今、好きなものを買ってあげられる状況なので、余計に我が身の不甲斐なさ、生活感のなさに愕然とします。僕にはそういう気のきかなさがずっとあり、後悔することが多かったですね。何も言わない人でしたから、胸が痛いです」 69年の6月、ふたりは原宿の中央教会で結婚式を挙げた。式には富岡の母や弟たちが大阪から、菅の両親やきょうだいが岩手から上京して、ふたりの友人たちとともに祝った。 〈ナホ子は、タクシーを電話で頼む。オヤと弟のために、近所の寿司屋から遅い昼食をとらねばならぬ〉〈ナホ子はまだ化粧もしていない。オヤと弟たち、それにマチ子と子供は寿司をパクパク食べている。ナホ子はガーターのまま、まだ靴下もはいていない〉(「極楽通り極楽番地」『冥途の家族』1974年) 式の当日、大阪からやってきた母親と弟たちの世話をしながらひとり教会に出かける準備をする花嫁の姿は、どこか36歳の林真理子が結婚式を挙げたときの姿と重なる。林は、ドレスから式場、披露宴会場に至るまでをひとりでプロデュースし、バスを借り切って親戚を故郷・山梨から東京へ招いた。 片やサブカルチャー全盛の69年、片やバブルの余韻が色濃い90年と時間の開きはあるし、志向や個性の差は歴然としているものの、仕事と経済力のある女性が結婚するときはこうなのかと思わされる。35年生まれの富岡多惠子と54年生まれの林真理子は、ともに結婚時、時代を体現する存在であった。