島崎今日子「富岡多惠子の革命」【2】白い教会の結婚式
◆ズカズカとのりこんできた若い男 多摩美在学中から作品を発表していた菅の第1回の個展は、新宿にあった椿近代画廊で68年11月の18日から23日まで開かれている。どこかの日だったか、富岡はひとりで現れた。 「とにかく来てくれたんですよね。多惠子さんには姿形からしてガッと惹きつけるものがあったから、誘ったことも忘れて、僕はすごいひとが来たなとか思いながら、『何を作ったんですか』と聞かれて、『僕もよくわかりません』と答えたりして、ひとことふたこと交わしたの。作品を見ても、あんまりほめないんですよね。いいんだか悪いんだか、『ふぅ~ん』と鼻を鳴らしてあしらわれて、僕は『頑張ります』とか言ってるわけですよ。ただ、その後もずっとそうなんですが、彼女が僕の作品を否定することはなくて、『そうなのね』と、まあ、納得してくれたんです。 その日、多惠子さんのマンションに行きました。そのときの僕はなにも考えていないアホたれで、メシ食わせてもらおうという邪な考えが働いたんだと思うな。『ちょっと腹減ったから、メシ、奢ってくれない?』と言ったら、『じゃあ、うちに来てご飯食べたら』と言ってもらって、こりゃいいやと若林のマンションについて行って、もう彼女の家に住みはじめたわけです」 〈若い男がとつぜんズカズカとのりこんできて、はじめっからケッコンしようと当然のようにいい、返事をしないでいるとひと月ほど居坐って、黙って他人のメシを食べていた。 (中略)最低限度に必要なことしか喋らぬ無口ときているので、たちまち話のつぎ穂を失い、黙ってただものを食べている。それにしても、ほれたはれたはおろか、今時風に愛しているとか好きだとかもいわないから、ケッコンしようというのは順序がおかしく思われる〉(『青春絶望音頭』1970年) 「そのころの僕は、風来坊のようなものですよ。当時、60年代の終わりというのは、ヒッピーがいたり、そういう類の人間が跋扈していたんです。僕も大学出たばかりでどこにも就職しないでフラフラして、恐らくそういうフーテンのひとりでした。そういう人間がこのあとどう生きていくかって考えると、そりゃあ、結婚しかないなと。とにかく、そのときの僕は心理的にひとりでいるということができない状態だったんですよ。 ご飯にありついたら気が大きくなるから、『一緒にいていいですかね。俺は端のほうでいいですから』とか言って、ここから出ませんよという意思表示をし、『結婚しましょう』と言ったの。彼女の部屋は最新式で、広くて快適だったから、図々しい僕は隅のほうでこそっと暮らしている分にはいいだろうと思ったんですよ。大学の寮を出てから借りていた綱島の六畳一間のアパートを引き払い、転がり込んだんです。多惠子さんのところには女ともだちや四谷シモンなど、いろんなひとが出入りしていて、食って飲んでしゃべっていましたよ。恥ずかしいから僕はすぐに引っ込みましたけれど」 富岡の部屋に住むようになった菅は、彼女が仕事にかかると、下の空き地で石を触ったり、近くの喫茶店「すみれ」に出かけるのが常だった。そこに何時間も居座り、本を読み、1日中「遊んでた」。この時期にベランダから見下ろせるマンション内の敷地に石灰を撒いて固めた作品が、2015年東京都現代美術館での展覧会の図録に収録されている。