<無罪確定>袴田巌さんを半世紀以上支え続けた世界一の姉・ひで子さん「職場の昼休みに流れたテレビのニュースで事件を知って…」
◆職場で知った惨劇 浜松市常盤町の「富士コーヒー」に勤めていたひで子さんは、昼休みにテレビのニュースで事件を知る。 「あれっ、清水のこがね味噌って、巖が勤めてる会社じゃないの。えっ、巖が『よくしてもらっている』って言ってた専務さんが殺されたなんて。巖は今、どうしてるんだろう」携帯電話などない時代。 「こがね味噌」の固定電話になんとか連絡すると、弟は「寮で寝てたら専務の家が火事になった。強盗だか何だかわからん」などと興奮気味に話した。 事件のあった週末も巖さんは、実家に預けている幼い息子に会うため、浜北市(現・浜松市浜北区)を訪れ、ひで子さんも実家に戻った。 父の庄一さんは当時中風(ちゅうぶ:脳卒中の後遺症)で寝たきりだった。 家族は巖さんが犯人だと思うはずもないが、怨恨としか思えない橋本一家の惨殺ぶりに、ひで子さんや母のともさんは、「巖が変なことに巻き込まれていなければいいけど」と心配はしていた。 それでも、巖さんが近所の人に、「寝てたら専務の家が火事になった。みんなで必死に消したけど、どうしようもなかった」などと話す普段と変わらない様子に安心した。 だがその後、巖さんが殺人、放火などの容疑で逮捕され、33歳のひで子さんの人生は一変する。
◆昭和30年代にあって「翔んでるキャリアウーマン」だった ひで子さんは20歳で恋愛結婚をしたが、21歳で別れてしまう。「まあ、性格の不一致でしたね」(ひで子さん)。 その後、母親からは「しょうもない男でも 男は男だから」と再婚を勧められた。しかし、ひで子さんは「しょうもない男なんかと結婚なんかできるか」と突っぱねていた。 「事件の後、『弟のために結婚を断念した』なんて 言われたり書かれたりしていたけど違うんですよ。巖には関係なく、結婚なんかアホらしくてしてられるか、という気持ちでしたね」 と笑って振り返る。 ひで子さんは中学を出て務めた税務署を「女はお茶くみのようなことばかりさせられる」と、13年で退職し、民間の会計事務所に勤めた。 その後、「富士コーヒー」で主に経理を担当し、優れた能力を発揮していた。社長に紹介された経営者から経理帳簿を預かり、経理を代行した。 「商売人たちは人付き合いは上手でも、細かい経理が苦手な人は多い。私は税務署や税理士事務所にいたから、そういうのは得意。1件当たり3万円とか5万円とか。ずいぶん稼がせてもらいました」遊ぶ時は男性とばかり付き合っていたとか。 「女の友達はいろいろとややこしい。男のほうが性に合っていた。独身で週末には行くところもない男連中をアパートに集めては、毎週、麻雀を楽しんでいましたよ」 「女は早く結婚して家庭に入るべし」との社会通念が強かった昭和30年代にあって、ひで子さんは「翔んでるキャリアウーマン」だった。 「20代から33歳までは、本当に青春を謳歌して、好き放題やっていましたね」世を震撼させた放火殺人事件は、そんな頃に起きた。 事件の後、巖さんは「警察が近づいてきて『中瀬(実家の地名)の神社はどこですか?』なんて聞いてくる。どうも俺を尾行しているみたいなんだ」と話すようになった。 それでも、ひで子さんやともさんは「あれだけの事件だからね。警察は一応、従業員全員を疑ってかかり、みんなが尾行とかされているんだろうよ」などと話し、さして気にもしなかった。 だが、次第に雲行きが怪しくなる。 ※本稿は、『袴田巖と世界一の姉:冤罪・袴田事件をめぐる人びとの願い』(花伝社)の一部を再編集したものです。
粟野仁雄
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