<無罪確定>袴田巌さんを半世紀以上支え続けた世界一の姉・ひで子さん「職場の昼休みに流れたテレビのニュースで事件を知って…」
◆「凶悪を通り越し猟奇的」 4人の遺体は県立富士見病院(現・県立総合病院)と国立静岡病院(現・静岡てんかん・神経医療センター)で司法解剖された。 藤雄さんは全身に3度の火傷を負っていたが、後頭部、胸部、肩などに15カ所に刺し傷や切り傷があり、死因は「失血死」。致命傷は心臓の12センチの刺し傷だった。 妻のちえ子さんは4度の火傷で、背中など13カ所を刺されて、死因は失血と火傷だった。 二女・扶示子さんは全身に3度から4度の火傷に加え、胸などに9カ所の刺し傷があり、心臓の傷による失血と一酸化炭素中毒が死因とされた。 長男の雅一郎さんは4度の火傷、首、胸、手など12カ所刺され、死因は肺からの出血などだった。明らかな殺人事件に清水署の沢口金次署長は「凶悪犯罪を通り越して猟奇的なものでさえある」とコメントした。 妻と二女、長男は就寝場所で死んでおり、家の中を動いたのは犯人と格闘したと思われる柔道2段の藤雄さんだけだった。 清水署に「横砂会社重役強殺放火事件特別捜査本部」の看板が据えられたが、犯人は杳(よう)としてわからない。 幕末から明治にかけて活躍した博徒で実業家の清水次郎長(本名・山本長五郎)で知られ、「三保の松原」などの美しい海岸が広がる港町に緊張が走った。
◆たまたま不在だった同室者 放火殺人事件の夜、袴田巖さんは「こがね味噌」工場2階の従業員寮で寝ていた。プロボクサーだった巖さんは引退後、清水市のキャバレー「太陽」で働いた後、独立してバー「暖流」を経営するがうまくゆかず、「こがね味噌」に住み込みで勤めていた。 無口で働き者の巖さんを藤雄さんは可愛がった。巖さんは早くに結婚し一男をもうけたが、妻は男を作って去り、2歳の息子は巖さんの両親のもとで育てられていた。 従業員寮は相部屋だったが、事件の夜、巖さんと同室の佐藤文雄さんは居なかった。この頃、藤雄さんの父藤作さんはリウマチで入院し、祖父と同居していた孫の昌子さんは旅行に出ていた。 不用心を心配した藤作さんの妻のために、巖さんと寮で同室の佐藤文雄さんが離れの社長宅に一緒に泊っていた。これが巖さんのアリバイ証明を困難にした。 火災発生時、寮に住む従業員の佐藤省吾さんは、消防のサイレンで目が覚め、相部屋の同僚を起こして寮の階段を下りた。巖さんの部屋のガラス戸は開いていたが、中は見ずに外へ出たという。2人して寮の階段を下りた。 巖さんの部屋のガラス戸は開いていたが、中は見ずに外へ出たという。2人は工場敷地にある消火ポンプのホースをつなぎ、近くに住む村松喜作さんとともに放水した。 村松さんは「無事だった土蔵に家の人が逃げているかもしれない」と思い、土蔵近くの物干し台に上った。 「バールを持ってこい」と叫ぶと、佐藤省吾さんと巖さんがやってきた。放水で2人ともずぶ濡れで、巖さんは白っぽいパジャマ姿だったと村松さんは記憶していた。 遅れて駆け付けた「こがね味噌」の従業員の山口元之さんも、パジャマ姿でびしょ濡れの巖さんが工場に歩いてくるのに出会ったという。だが、これらの「アリバイ証言」は警察によって潰されてゆく。
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