「わたしは子を産む女のようにあえぎ…」旧約聖書の父なる神の「母性」とは?
とはいえ、「霊(プネウマ)」を「知恵(ソフィア)」に結びつける考え方は、早くもすでに使徒パウロの『コリントの信徒への手紙1』のなかに認められる。 それによると、「神の知恵」は「世界の始まる前から定めておられたもの」であり、神は「“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました」(2.7-10)、というのである。これを受けるようにしてアウグスティヌスもまた、「あなた〔神〕から生まれ、あなたに等しく、あなたとともに永遠であられるあなたの知恵」(『告白』13.5)と呼んでいる。 パウロのこの解釈は、『創世記』の冒頭(1.2)、「神の霊が水の面を動いていた」を踏まえたものである。さらに、この「霊(ルーアハ)」を神の「知恵(ホクマー)」と同一視する見方は、すでに旧約聖書のなかで芽生えている。 たとえば、『箴言』において「知恵」が一人称で、こう呼びかける。「主は、その道の初めにわたしを造られた。/いにしえの御業になお、先立って。永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って。/わたしは生み出されていた/深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき」(8.22-24)、と。
つまり、創造の6日間がはじまるよりも前に、神はまず「知恵」を生みだし、この「知恵」とともに世界を創ったというのだ。 ちなみにヘブライ語の「ホクマー」は女性名詞である。この「知恵」は、『創世記』の冒頭にある「神の霊」とも重なるものとみなされる。 ● 「知恵」は神の霊でもあり娘でもあり 花嫁でもある良きパートナー このように擬人化されてもいる「知恵」はつづけて、「〔主の〕御もとにあって、わたしは巧みな者となり/日々、主を楽しませる者となって/絶えず主の御前で学を奏し/主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し/人の子らと共に楽しむ」のだと、誇らしげに語る(『箴言』8.30-31)。 つまり「知恵」は、神の「霊」にして、神の娘でもあるわけだ。『詩編』にもまた、「主よ、御業はいかにおびただしいことか。/あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。/地はお造りになったものに満ちている」(104.24)、とある。 さらに「知恵」を「花嫁」になぞらえるのは、旧約聖書続編の『知恵の書』(8.2-4)である。「知恵は神と共に生き、その高貴な出生を誇り、/万物の主に愛されている。/知恵は神の認識にあずかり、/神の御業を見分けて行う」。「知恵」はこのように、神の愛される良きパートナーでもあるのだ。