「わたしは子を産む女のようにあえぎ…」旧約聖書の父なる神の「母性」とは?
キリスト教による「聖霊」とは三位一体論の第三位格を意味する。男性中心主義的な教理が残る宗教の世界では「聖霊」は男性だと捉えられることも少なくない。しかし、「聖霊=聖母マリア」であるという記述も多く見つかっている。もしも聖霊が女性だとしたら?西洋美術研究者である岡田温司氏がこの謎に挑む。※本稿は、岡田温司『キリストと性:西洋美術の想像力と多様性』(岩波書店)の一部を抜粋・編集したものです。 【この記事の画像を見る】 ● 三位一体の象徴である 「聖霊」がもしも女性だとしたら? 神には「父なるPater」と冠され、イエスはその「息子Filius」で、しかも「聖霊Spiritus」は父から発出されるものだとすると、それらは別の位格ながらも実体においては同じひとつのものだという三位一体は、それ自体きわめて男性中心主義的な教理だということになるだろう。しかも、都合のいいことに、ラテン語の「スピリトゥス」は男性名詞ときている。 しかしながら、実際はそれほど単純な話ではない。「聖霊」によって子を孕んだとされるマリアの存在を無視することはできないからである。それゆえ、長い論争の末にとりわけ5世紀以来、「テオトコス」すなわち「神の母」という称号がマリアその人にたいして与えられてきたのも偶然ではない。 たしかに、父なる神と息子イエスは別にして(さらに両性具有ととらえる系譜は別にして)、「聖霊」にはジェンダーをまたぎうる要素が残されている。あるいは、男性/女性、人称/非人称、自然/超自然、物質/非物質などといった通常の二元論的な発想を超える要素がある(Castelo)、といってもいいだろう。 このことは文法上にも反映されているようで、「聖霊」を意味するラテン語の「スピリトゥス」は男性名詞なのだが、ヘブライ語の「ルーアハ」は女性名詞で、ギリシア語の「プネウマ」は中性名詞である。
男性中心主義的な三位一体の教理が、別の解釈の可能性にも開かれうるとすれば、それは、まさしく「聖霊」をいかにとらえるかにかかっているのだ。3つのペルソナ(位格にして仮面)のうちひとつが女性ならどうだろうか。 ● 正統のキリスト教神学者も 「精霊はキリストの母である」 たとえば、2世紀後半にさかのぼるグノーシス主義の『フィリポによる福音書』(§17a)には、次のようにある。「マリアは聖霊によって孕んだ」と主張する者たちは間違っている。「彼らは一体何を喋っているのか知らないのだ。一体いつの日に女が女によって妊娠することがあり得るだろうか」(大貫隆訳)、というのだ。 ということはすなわち、聖霊は「女」とみなされていることになる。 さらに、遅くとも3世紀には成立していたとされる『使徒ユダ・トマスの行伝』(50)によると、「聖なる鳩よ、/隠された母よ、来たりませ。/あなたの業の中に現われ、あなたと交わるすべての人々に、/喜びと安息を与えるお方よ、来たりませ」(荒井献訳)、となる。ここで聖霊は、「鳩」にも「母」にもなぞらえられているのである。 とはいえこうした考え方は、三位一体が4世紀に教義として固まっていくなかで、異端的なものとして退けられるようになったのだろう。