【内田雅也の広角追球】阪神90周年に輝く甲子園球場の御来光 「昭和100年」と重なる歩み
甲子園球場に日が昇った。三塁側アルプススタンド後方、オレンジ色に輝く強い光がさしてきた。2025年1月1日、午前7時13分、御来光である。 今年、阪神は球団創設90周年という節目を迎える。それは同時に、激動の時代を駆け抜けた「昭和」が100年という歳月を刻む年でもある。猛虎の歴史と昭和という時代、一見異なる二つの事象は、幾万の人びとの記憶のなかで結びつき、特別な意味を持つ。 阪神の歴史はそのまま昭和の世相を映し出す鏡だった。戦前、戦中、戦後と、日本の社会が大きく変動する中で、タイガースは常に人びとの心をとらえ、希望や勇気、時には悲しみも共有してきた。 球団創設は1935(昭和10)年12月10日。草創期の主砲、立教大にいた景浦将が初代監督・森茂雄、初代エース・若林忠志から東京・銀座の資生堂パーラーで入団勧誘を受けたのは1936(昭和11)年2月26日。「昭和維新」を掲げ、青年将校が決起した「二・二六事件」当日だった。 その景浦をはじめ、多くの選手が戦場に散った。すでに連盟が休止していた1945(昭和20)年、元日から甲子園と西宮で行った関西正月大会に出場した多くは藤村富美男や呉昌征ら阪神の選手だった。 戦後の焼け跡から立ち上がるなか、人びとに力を与えたのは躍動する猛虎たちの姿だった。1962(昭和37)、1964(昭和39)年のリーグ優勝は高度経済成長期を迎えた日本に大きな活気を与えた。1985(昭和60)年の日本一は列島が猛虎フィーバーにわき返った。 しかし、直後の昭和末期、1988(昭和63)年から長く下位に低迷する「暗黒時代」が訪れる。年号は平成と変わったのだが、阪神は誇らしい昭和の野球を追い求めていたのかもしれない。つまり、老舗球団として、阪神独自のやり方にこわだっていた。球団運営も人気にあぐらをかいていた側面は否定できない。 1990(平成2)年に阪神球団社長に就いた三好一彦(94)が戒めとして残したメモを持っている。9年務めた社長退任後、三好本人から譲られた資料の合間にはさまっていた。長年フロントを務めた奥井成一が91~92年、週刊ベースボールに連載した『わが40年の告白』からの抜すいだった。 「風呂の釜」は「湯(言う)ばかり」、「雪駄(せった)の土用干し」は「ちょっと日が当たると反り返る」のしゃれ言葉である。そして「斜陽の名門であってはならない」と記していた。 歴史で言えば、野村克也から星野仙一と外部大物監督を招いて、阪神は復活した。ただし、岡田彰布が指揮した2005年から2023年まで優勝は遠ざかっていた。12球団監督で最年長だった岡田は「昭和の野球」と呼ばれていた。 昨年オフ、岡田が退き、新監督に若い藤川球児が就いた。阪神は「昭和」に別れを告げようとしている。 社会学者・古市憲寿が年の瀬に出した、その名も『昭和100年』(講談社)に<昭和の夢>について<夢を叶(かな)えるのと同じくらい、夢を忘れずにいることも大事だ>とあった。<新しい夢を求めるのなら、まずはその夢が本当に新しいのかを確かめたほうがいい>。 そして<逆説的だが、「昭和」と訣別(けつべつ)するためには、きちんと「昭和」を忘れずにいるべきなのかも知れない>。 昭和を見つめなおしたい。球団90周年と昭和100年を祝い、過去を振り返り、未来への希望を新たにしたい。単なる野球チームの記念ではなく、心の歴史を刻む、大切な一年となるはずだ。 『日はまた昇る』のアーネスト・ヘミングウェーが『老人と海』で書いていた。<今日はきっといける。毎日が、新しい一日だ>。 前を向きたい。歴史の転換点となる阪神90周年、昭和100年の初日の出だった。 =敬称略= (編集委員) ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963(昭和38)年2月、和歌山市生まれ。桐蔭高―慶大卒。1985(昭和60)年入社から野球記者一筋40年。甲子園球場で初日の出を拝むのは2013年から13年連続となった。