「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・柏木⑩ 花は盛りと咲くけれど…故人思う人々の胸の内
■放心したように空を仰ぐ 「あなたの母君(葵の上)が亡くなった秋は、もうこれ以上悲しいことはないと思ったものですが、女性(にょしょう)の場合はそういう決まりがあるために、人前に出ることもまれですし、日頃のあれこれが表に出ることはありませんから、悲しみも内々のものでした。ところが、息子はふつつか者ではありましたが、帝もお見捨てにならず、ようやく一人前になって、官位ものぼるにつれて頼りとする人々もおのずと数多くなりました。亡くなったことを驚き、残念がる者もあちこちにいるようです。しかし私のこの深い悲しみは、そうした世間一般の人望とか、官位などとは関係なく、ただ、とくに人と変わるところがあったわけではない、息子本人の有様だけが、たまらなく恋しいのです。いったいどうしたらこの悲しみが忘れられるでしょう」と、放心したように空を仰ぐ。
夕暮れの雲は鈍色(にびいろ)に霞んでいる。花の散ってしまった枝々を、大臣は今日はじめて目に留める。先ほどの畳紙に、 木(こ)の下(した)の雫(しづく)に濡れてさかさまに霞(かすみ)の衣(ころも)着たる春かな (子に先立たれた悲しみの涙に濡れて、逆さまに、親のほうが喪服を着ている春となってしまった) 大将の君、 亡き人も思はざりけむうち捨てて夕べの霞君着たれとは (亡くなった人も思いも寄らなかったことでしょう、あなたさまを残して、喪服を着せることとなるとは)
弟である右大弁の君、 うらめしや霞の衣(ころも)誰(たれ)着よと春よりさきに花の散りけむ (恨めしいことです。だれに喪服を着せようと思って、春が逝(ゆ)くよりも先に花は散ってしまったのでしょう) 督の君の法要は、世間に例のないほど盛大に執り行う。督の君の異母妹である、大将の妻(雲居雁)はもちろんのこと、大将自身も誦経なども格別に心をこめて、深い配慮のもとに行う。 次の話を読む:11月17日14時配信予定
*小見出しなどはWeb掲載のために加えたものです
角田 光代 :小説家