「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・柏木⑩ 花は盛りと咲くけれど…故人思う人々の胸の内
時しあれば変らぬ色ににほひけり片枝(かたえ)枯れにし宿の桜も (桜の時期となれば昔と変わりなくうつくしい色に咲き匂うものなのですね、片枝が枯れてしまった邸の桜も──督の君を失ったあなたも) さりげなく吟じて立ち上がると、御息所からすぐに、 この春は柳の芽(め)にぞ玉はぬく咲き散る花のゆくへ知らねば (今年の春は、柳の芽に露の玉を貫くように、目に涙を宿しています。咲いて散る桜の行方もわからないので) と返歌がある。格別深い教養があるわけではないが、はなやかで、才気があると言われていた更衣(こうい)なのである。なるほど、そつのない対応だと大将は思うのだった。
大将はそのまま督の君の父、致仕の大臣の邸に立ち寄った。弟の君たちが大勢やってきている。「こちらにお入りください」と言われ、大将は寝殿の表座敷のほうに入る。大臣は涙を静めてから大将と対面する。いつまでも老いを感じさせない端整な顔立ちがひどく痩せ衰えて、髭なども手入れをしておらず伸び放題で、子が親の喪に服すよりずっと悲しみが深そうである。大将はその姿を見るなりとてもこらえきれなくなり、しかしあまりにも止めどなく涙を流すのも見苦しいと思い、なんとかして隠している。大臣も、この大将は息子ととくべつに仲がよかったのだと思って見ると、涙が雨のように降り落ち続けて、止めることができず、尽きることのない悲しい胸の内を互いに語り合う。
一条の邸を訪問したことなどを大将は話す。いっそう激しく、春雨かと思えるほど、軒の雫(しずく)と変わらないほどさらに涙で袖を濡らしている。御息所が詠んだ「柳の芽にぞ」という歌を、畳紙(たとうがみ)に書き留めておいたものを渡すと、「目も見えないほどだ」と大臣は涙を絞るようにして見ている。泣き顔で見入っている様は、いつもの気強くきっぱりした、自信満々の様子はみじんもなく、みっともない。実際はそうすぐれた歌というわけでもないのだが、この「玉はぬく(露の玉を貫くように)」というところが、まったくその通りだと思うと心が乱れて、長いこと涙をこらえきれなくなる。