シリア・アサド政権崩壊という”大どんでん返し”が起こった理由…この先、世界にどのような影響を及ぼすのか
シリアでは、11月27日以降、反政府勢力が攻勢を強めていたが、12月8日に首都ダマスカスを制圧した。アサド大統領は家族とともにモスクワに逃亡し、ロシアに亡命した。アサド政権は崩壊した。この政変はなぜ起こったのか。そして、世界にどのような影響を及ぼすのであろうか。 【マンガ】バイデンよ、ただで済むと思うな…プーチン「最後の逆襲」が始まった
第二次世界大戦後のシリアの歩み
2010年秋にチュニジアで民主化を求める運動「ジャスミン革命」が起こったが、それは、エジプト、シリア、リビア、イエメンなど、他のアラブ諸国にも広がり、「アラブの春」となった。 シリアは、1946年にフランスから独立し、シリア第一共和国となった。しかし、クーデターが繰り返され、政情が不安定な状況が続いた。1958年には、エジプト、北イエメンと連合し、アラブ連合共和国となった。1961年には、この連合が解消され、シリア・アラブ共和国として再独立した。1963年3月にバアス党が政権に就いた。 1967年6月には、イスラエルはエジプト、シリア、ヨルダンを奇襲攻撃して撃破し、ヨルダン川西岸、ガザ、シナイ半島、ゴラン高原を占領した。また、東エルサレム(旧市街)の支配権も確立し、全エルサレムをイスラエル領とした。これが第三次中東戦争である。シリアは、ゴラン高原を失ったのである。 1970年に、バアス党内で穏健派のハフェズ・アサドが権力を掌握して大統領に就任し、その後は独裁的権力を行使した。 1973年10月6日、エジプトがシナイ半島に、シリアがゴラン高原に奇襲攻撃をしかけた。これが第4次中東戦争であるが、アラブの軍事力を過小評価し、油断していたイスラエル軍は後退を余儀なくされた。10月11日以降、イスラエルは反撃に出て、ゴラン高原を再占領した。また、シナイ半島でも中間まで戻し、エジプト軍を包囲する勢いとなったが、この時点で停戦となった。 第四次中東戦争の結果、1974年のアラブ首脳会議は、PLO(パレスチナ解放機構)をパレスチナ唯一の代表として認めた。PLOはヨルダンからレバノンに拠点を移したが、これに対して、キリスト教マロン派などが反発し、1975年4月にレバノン内戦が始まった。この内戦にシリアも参加し、PLOを攻撃した。 1978年にはイスラエルとエジプトの間でキャンプデービッド合意が成立した。また、1993年9月には、イスラエルとPLOの間でオスロ合意が成立した。 シリアでは、2000年にハーフィズ・アサドが死ぬと、次男のバッシャール・アサドが後継大統領となった。彼は、一定の民主化を進めたが、2003年のイラク戦争で、同じバアス党のサダム・フセインが倒れた後は、基本的人権を弾圧し、独裁色を強めた。