「自称ジャーナリスト」に騙されないために知っておきたいジャーナリズムの原則
「不偏不党」や「中立」はジャーナリズムの原則ではない
10の原則について全体は本書をあたってもらうとしよう。私がいくつか強調したいのは、日本ではことさら特別な扱いを受けている権力監視は第5の原則にようやく登場するくらいで、マスコミ報道批判でも繰り返し出てくる「不偏不党」や「中立」は言葉すら出ていないことだ。反対派と賛成派、中立派の意見を等分に並べましょうとか、それぞれの候補の見解を同じ時間きっちりと報じる、そうすれば中立が保たれたというような安直な判断はジャーナリズムの原則とは何の関係もないのだ。 私なりにまとめると、10の原則から導かれるジャーナリストの仕事、その最大の意義は民主主義に貢献することにある。ニュースに接した人々、主権者が何かを考える材料を得て、ある事象への理解を深めていくために必要なのだ。 想起するのは『ジャーナリズムの起源』(別府三奈子著、世界思想社)に記されていた、ちょうど100年前の話である。1924年、米国新聞編集者協会会長のキャスパー・ヨストは協会が定めた倫理綱領を広めるために、『ジャーナリズム原理』という著書を出した。 ヨストによれば、「news」という言葉はサンスクリット語に起源があり、「人間が思考するために必要な糧」を意味するという。そのうえでヨストは、ジャーナリズムを「news」と「views」(論説)を兼ね備えたものであると定義し「『newsに対する論説での批評、出来事に対する意味解釈、情報と関連づけての見解、事実に基づいた意見などをあわせて提供することで、読者の理解や読者自身の意見形成を手助けすること』といった説明を加えている」(別府前掲書)。 この100年、ジャーナリズムの役割は実は大きく変わっていない。だが、担い手の一部であるジャーナリストの今はどうだろうか。10の原則の中から、私が特に大切だと思う原則を二つ抜き出して、もう一度確認しておきたい。
ジャーナリズムを他のコミュニケーションと分ける「規律」
第三原則:ジャーナリズムの本質は、事実確認の規律にある 第四原則:ジャーナリズムの仕事をする者は、取材対象から独立を保たなければならない 事実確認の規律はジャーナリズムの根幹である。なぜなら「結局は事実確認の規律が、ジャーナリズムと、エンターテイメントやプロパガンダ、フィクション、芸術とを区別する(p.174)」からだ。 コバッチらが指摘するのは、たとえばエンタメは何が最も人の気を引くかに重きを置き、プロパガンダは事実を恣意的に用いるか、でっち上げるかして自分たちを信じさせることに使う。フィクションは「真実と呼ぶもの」を感じ取れるようにシナリオを作り上げるという点でジャーナリズムとは違う。 ジャーナリズムはそれらとは異なり、「起きたことを正しく捉えるためにどんなプロセスを経るか」を重視することでオリジナリティを獲得する。彼らは議論をさらに推し進め、ジャーナリズムをより強くするために規律を保つ方法、「報道の科学における知の原則」を導き出す。それが以下の5つだ。 ・もともとなかったものは決して付け加えない ・読者・視聴者を決して欺かない ・自分の方法と動機をできるだけ透明に開示する ・自分自身の独自の取材に依拠する ・謙虚さを保つ さて、ここでSNS空間を想起してみよう。権力に立ち向かっているかのようなポーズをとり、自分が確認できていない真偽不確かな情報に寄りかかり発信している「ジャーナリスト」がいないだろうか。事実確認の規律が緩んでいる記事を発信して悦に入る「ジャーナリスト」がいないだろうか。そして、政治的立場が同じであるがために彼らこそ「真のジャーナリスト」であると賞賛している人々がいないだろうか。そんな人々には謙虚さのかけらもなければ、規律もない。 ジャーナリストが自分の信念を持つことも、特定の問題について考えを持つこともいい。だが、ニュースは全体像を歪めてはいけないし、事実確認しないまま流すことは許されない。 事実確認の規律は「ジャーナリズムを他のコミュニケーションの分野とは違うものにし、ジャーナリズムが存続するための経済的な力ともなる」が、規律を緩めてしまった瞬間に一部の「ジャーナリスト」を自称する人々が拍手喝采と収益を集め、ジャーナリズム全体の経済的な力を弱める地盤沈下が始まるものだ。 ジャーナリズムは一部のコミュニティや一部の政治的主張を持つ人々の奉仕者ではない。取材対象からは独立していなければいけない。ジャーナリストがどのような価値観を持つことも自由ではあるが、人々に物事を知らせること以上に踏み込んではいけない。それ以上の踏み込みは運動家の領域であり、一歩間違えばプロパガンダを広める仕事となんら変わらない職業観へと接近する。 「ジャーナリストの目標は、市民としての問題を社会みんなで考えるようにすることだ。政治活動家や宣伝家の目標は、信じさせること――決まった政策や政治的結論を支持するよう、人々を得心させたり操作したりしようとすることだ(p.293)」 現代のインターネットは「政治活動家」の主戦場であり、自分を信じさせようという言説はあらゆるところで広がり、分断も生まれる。ある程度、政治に興味を持っている人のほうが極端なオピニオン、果ては陰謀論に流れていくリスクが高い。分断の問題は、対立陣営を打ち負かすコミュニケーションにばかり時間を割かれてしまうことにある。ジャーナリストがこうした分断に加担し、当事者になってしまうようなことがあってはいけないのだが逸脱は目立つように思う。