ピンク・レディー 増田惠子が車歴を初披露! 絶頂期の過激な移動エピソードとは
愛車を見せてもらえば、その人の人生が見えてくる。気になる人のクルマに隠されたエピソードをたずねるシリーズ第57回。前編では、歌手・俳優の増田惠子さんが、ピンク・レディー時代の移動車と久しぶりに再会した。 【写真を見る】増田惠子と当時の移動車が艶やかに、ゴージャスに共演!(16枚)
半年で10kg減の超多忙生活
撮影場所で2代目の日産「プレジデント」と対面した増田惠子さんは、後席のドアを開けて室内を覗き込み、「懐かしい……」と、感慨深げにつぶやいた。 「ピンク・レディーとしてデビューしてから2年ぐらいで、事務所のクルマが(日産)『ブルーバード』からプレジデントに変わったという記憶があります」と、言いながら、助手席側の後席に乗り込んだ。 「中学生の頃から、ミー(未唯mieさん)が右、私が左と立ち位置が決まっていました。なぜなら私が左利きで、自由に左手を動かすためです。あ、そうだ、手鏡を貸してください」 そう言ってヘアメイクの方から手鏡を受け取ると、前席バックレストのポケットにはさんで、鏡を覗いて左手で髪の毛にふれた。 「私たちのデビュー当時は、歌手でも俳優でも自分でメイクをしていました。テレビ局にはメイクさんがいましたけれど、私たちはギリギリで現場に入るからお願いしている時間がなくて、こうしてクルマの中で髪やメイクを直していましたね。カーラーで髪を巻きながら移動していたことも、いまとなってはいい思い出です」 当時のピンク・レディーがどれだけ忙しかったのかを、デビュー前にさかのぼって増田さんが振り返った。 「実を言うと、いつから忙しくなったのかがよくわからないんです(笑)」と、前置きしてから、当時を回想した。 「昭和51年(1976年)の4月12日に、私とミー、そしてそれぞれの母親の4人で静岡から東京に出てきました。事務所の方が出迎えてくださって、最初はタクシーに乗ったはずです。そこから毎日、日本テレビの音楽学院に通ってレッスンを受けて、デビューが8月25日に決まりました。でも、8月の末のデビューだとその年の新人賞には間に合わない。そこで事務所のみなさんが、6月の後半から雑誌やテレビ、ラジオの仕事をたくさん入れてくださったんです。だからレコードデビューの前から慌ただしくて、いつから売れはじめたのかがはっきりしないんです」 こうして、8月25日のデビューの2ヵ月前から、「1日3時間寝られればいいかな、という感じ」の、超多忙な生活が始まった。 「富ヶ谷に寮があって、まだ薄暗い時間にネイビーのブルーバードが迎えに来て、それに乗って仕事をして深夜に寮に戻ると、次の日の出発2時間前とか(笑)。食事をする時間も当然なくて、いろいろな形のクッキーが入った缶とリンゴとバナナをクルマに積んで、移動しながらモグモグ食べていました。デビューした時には体重が48.5kgあったんですけれど、半年で10kg痩せたんです(苦笑)」 元気旺盛な18歳とはいえ、いきなりエンターテインメントの狂騒に巻き込まれて、辛くはなかったのだろうか。 「まったく辛いとは感じなかったですね。というのも静岡でヤマハのボーカルスクールに通いながらなかなかデビューできない、下積みの2年間があったんです。当時は“花の中3トリオ”のみなさんとかが活躍されていたのに、私たちはもう高校卒業で……焦ってましたね。でも『スター誕生!』の決勝大会でT&C・ミュージックの相馬(一比古)さんが夢を叶えてくれて、ビクター音楽産業のディレクターの飯田(久彦)さん、都倉俊一先生、阿久悠先生、土居甫先生といった方々が、絶対に売ってやると言ってくださいました。みなさんの期待に応えられるなら、寝る時間がなかろうが食べる時間がなかろうが、絶対にやってやろうと思っていました」 こうして1976年8月25日、『ペッパー警部』がリリースされると、ピンク・レディーは一躍時代の寵児となり、社会現象といえるほどの大きなうねりを起こした。 「初めて『ペッパー警部』のオケをいただいたときには、大号泣しました。自分たちのオリジナル曲をもらえたということと、私たちが目指すソウルフルでアップテンポな楽曲だったことが、すごくうれしかったんですね。だから辛いなんていう気持ちは微塵もありませんでした」