ピンク・レディー 増田惠子が車歴を初披露! 絶頂期の過激な移動エピソードとは
“魔の月曜日”
『ペッパー警部』に続いて、『S・O・S』、『渚のシンドバット』などの大ヒット曲を連発。デビュー2年後には移動用の車両がブルーバードからプレジデントに“格上げ”される。 「シルバーのプレジデントで、ブルーバードより広くて豪華になって、ご褒美なんだろうなと、ありがたく思ったことを覚えています。でも、やることは一緒なんですよ(笑)。お化粧を直して、次の番組の台本を覚えて。時には雑誌のインタビューを受けたり、撮影をしながら移動をしました。そんなにたくさんの持ち歌があったわけではなくて、コンサートでは海外のミュージシャンの曲をカバーすることも多かったので、ハーモニーの練習もしました。ラジカセを持ち込んで、いまのところもう1回! と、巻き戻したりして。もう少し後になるとウォークマンが発売されて、プレジデントの後席で愛用するようになりましたね」 当時のピンク・レディーのふたりは、毎週月曜日を“魔の月曜日”と呼んでいたという。 「まず、代々木の山野ホールで『三波伸介の凸凹大学校』の収録があるんです。そこから渋谷のNHKホールに移動して『レッツゴーヤング』、終わったらすぐ目の前の渋谷公会堂で『NTV紅白歌のベストテン』の、公開生放送があって、終わった瞬間に会場を飛び出してフジテレビの『夜のヒットスタジオ』へ。合間にラジオや雑誌の取材もあったりして、月曜日に倒れたら大変なことになるな……と、思った記憶があります」 人気絶頂のピンク・レディーには親衛隊や追っかけもたくさんいたはず。彼らを巻いたりした記憶もあるのではないだろうか。 「いえいえ、当時はスケジュールがタイトで、次の現場に直行しなければ間に合わないので、誰かを巻いたりしている時間的余裕はなかったですね。そうそう、銀座で渋滞に巻き込まれて、マネージャーさんから『ミー、ケイ、降りるぞ』と、言われてプレジデントから降りて、電車に乗ったこともありました(笑)。寒い時期で、衣装の先生が作ってくださったコートを着ていましたが、足元はステージ用のブーツだから目立ったはずです。でも電車の中ではだれからも声を掛けられなくて、意外とスムーズに移動できました」 最後になってしまったけれど、ピンク・レディー時代の増田さんが、レッスンスタジオやメイク室として長い時間を過ごした、2代目日産プレジデントを紹介したい。 日産プレジデントは、既存車種の拡大版ではなく、まったく新しい3ナンバーサイズのフラッグシップモデルとして開発され、1965年秋に初代が登場した。全長5.0m超という立派なサイズで、パワートレインには4.4リッターのV型8気筒エンジンも用意。1990年まで基本構造を変えることなく生産された長寿モデルだ。 ピンク・レディーのデビュー2年後、1978年というタイミングだと、1977年の昭和50年排ガス規制をクリアするためのマイナーチェンジと、1982年のフェイスリフトでヘッドランプが角型4灯になる間のモデルだったと推測できる。 撮影を終えると、増田さんはプレジデントのインテリアを名残惜しそうに見つめながら、「こんなに豪華なのに、贅沢を満喫したという記憶がないんですよね」と、言って笑った。 ピンク・レディーは時代の大きな山を動かしたスーパースターであったけれど、第1期の活動期間は1976年から1981年までと短い。増田さんは、この短くも濃密だった5年間を日産プレジデントの後席で駆け抜けたのだ。