『ガールズ&パンツァー』で話題となったクリスティー式サスペンションが風前の灯に!? クリスティーとアメリカ軍の喧嘩別れの結末は……
ファンのみなさま、お待たせしました。だいぶインターバルが空いてしまいましたが、『ガールズ&パンツァー』で話題になったクリスティー式サスペンションの生みの親であるジョン・W・クリスティーの足跡を辿る連載の第6回目をお送りします。今回は1932年4月のフォート・マイヤー駐屯地で実施された試作戦車のデモンストレーション以降のエピソードです。T1とT3のさらなる改良を求める陸軍兵器局に対して、自身の発明に絶対の自信を持つクリスティーはあろうことか「改良の必要を認めず」と回答。この傲岸不遜な態度に激怒した兵器局の対応は……。 『ガールズ&パンツァー 劇場版』での活躍で一躍注目を浴びた「クリスティー式」とは?(C)GIRLS und PANZER Film Projekt T1騎兵戦車の採用を求めるパットンの声に対し 冷ややかな反応を示したアメリカ陸軍上層部 1932年4月、バージニア州フォート・マイヤー駐屯地で実施された試作戦車のデモンストレーションからワシントンD.Cへと戻った騎兵将校のジョージ・S・パットン少佐は、ジョン・W・クリスティーとの約束を守るべく、さっそくT1騎兵戦闘車とT3歩兵戦車の採用を各方面に働きかけた。 ジョン・W・クリスティー(1865年5月6日生~1944年1月11日没) 少年時代に鉄工所で働きながらクーパー・ユニオン(※)で工学を学び、軍艦の砲旋回装置の特許取得によって名声を得て、潜水艦の研究、FWD自動車や軍用車輌の開発で多大な功績を残した。レーサーとしてアメリカの国内レースやフランスGPにも参加している。第一次世界大戦を契機として軍用車輌の開発に着手し、彼の代表作である装甲車輌のクリスティー式サスペンションを発明する。 ※クーパー・ユニオンについてはバックナンバーを参照 根っからの軍人であったパットンにとって陸軍内での折衝はまだしも議会や役人相手の交渉は得意ではなかったが、クリスティー戦車の革新性とアメリカ陸軍の近代化のために、彼は自分に与えられた権限の範囲内で各方面に制式採用を働きかけたのだ。 しかし、パットンの思いとは裏腹に、陸軍上層部のクリスティー式戦車に対する評価は冷めたものだった。 ジョージ・スミス・パットン.Jr (1885年11月11日生~1945年12月21日没) アメリカ建国以来の軍人家系に生まれる。陸軍士官学校在籍中にストックホルムオリンピックに近代五種の選手として参加。1916年のパンチョ・ビリャ懲罰遠征時にフリオ・カルデナス将軍殺害の軍功を挙げ、第一次世界大戦では欧州派遣軍の一員として戦車隊を指揮して軍功を重ねる。戦間期は陸軍省で戦車の戦略・戦術・運用研究を行ういっぽうで、旺盛な戦意を持て余していた。第二次世界大戦にアメリカが介入すると、中将になったパットンは第2軍団の司令官に就任し、北アフリカやシチリア島の戦いで活躍。シェルショック(PTSDの一種)を発症した兵士を殴打したことで一時左遷されるが、1944年6月に連合軍がノルマンディー上陸作戦に成功すると米第3軍司令官として前線に復帰。以降、終戦まで戦い続け、連合軍勝利に大きく貢献する。 例えば、陸軍歩兵総司令官を務めていたスティーブン・O・フクア少将は、歩兵を中心とした戦略思想を信奉しており、戦車の設計や実験、配備こそ支持していたものの独立した機甲科の創設には強硬に反対する古いタイプの軍人であった。そんな彼が求めていた戦車は、第一時世界大戦の頃の常識で開発されたT2中戦車のような歩兵直協型の戦車であり、クリスティーが開発したT1のような高速戦車の価値が理解できず、「実戦では役に立たない」と一顧だにしなかったのだ。 スティーブン・O・フクア (1874年12月25日生~1943年5月11日没) 米陸軍士官学校を卒業後、数年間堤防検査官として勤務を経て、1898年に陸軍への入隊を申請して歩兵大尉を拝命。以降、米西戦争、米比戦争に従軍して軍功を収めた。1907年に歩兵騎兵学校、 1908年にアメリカ陸軍指揮幕僚大学を卒業し、カリフォルニア州兵で監察官および顧問を務める。1910年のパンチョ・ビリャ遠征に第12歩兵連隊の指揮官のひとりとして従軍。第一次世界大戦では第28師団の参謀長代行、第1アメリカ陸軍参謀の副作戦責任者、第1師団の参謀長などの要職を務めた。その後は第3軍団管区、ハワイ方面軍で情報担当参謀長補佐(G-2)を歴任。1920年代半ばには第8軍団管区、第2軍団管区で作戦担当参謀長補佐(G-3)を務めた。その後、第16歩兵連隊の連隊長を経て、1929~33年まで少将としてアメリカ陸軍歩兵総司令官を務めた。彼の軍歴の最後はスペイン駐在武官で、1938年に陸軍を退役。引退後は軍事評論やニューズウィークのコラムニストとして活躍した。1943年5月にニューヨーク州マンハッタンの自宅で死去する。 陸軍の新兵器開発を統括するアメリカ陸軍兵器局部長を務めていたサミュエル・ホフ少将は、1920年代初頭にクリスティーが開発したM1919を巡って激しく意見を対立させた兵器局の古参であった。彼の部下であり、新型戦車開発の審査役を務めていたジョン・クリスマス大尉もまたクリスティーに対して良い印象を持ってらず、彼の批判的な報告書の影響もあって、ホフ少将はT1やT3に対しても冷ややかな視線を向けていた。 サミュエル・ホフ (1870年10月24日生~1937年3月10日没) 1894年に米陸軍士官学校を卒業したホフは、騎兵科を経て武器科に転籍する。第一次世界大戦中にフランクフォード兵器廠の指揮官を務めた功績により殊勲賞を授与される。1921年に米陸軍大学を卒業後、1926年にハーバード大学経営大学院でMBAを取得。翌1927年に准将に昇進し、武器科副部長の職に就く。1930年に少将に昇進し、武器科部長として近代化が立ち遅れていた米陸軍の兵器開発と整備に尽力する。1934年に陸軍を退役し、その3年後、心臓病により66歳で死去した。 さらに言えば、この時代は世界恐慌の影響で兵器局の予算が削減されたこともあって、クリスティーが新型戦車の採用を得るには甚だ不利な状況に晒されていたのだ。 ロビー活動が功を奏してT3改良型の開発許可が下されるが 自身の発明に自信を持つクリスティーはこれを一蹴 こうした逆境を跳ね除けようと、クリスティーはワシントンD.Cで有力な政治家や政府機関を回って精力的にロビー活動を展開した。その甲斐があってT3は制式採用こそ逃したが、政治家からの強い働きかけがあったことで、陸軍兵器局は渋々ながらも歩兵科向けにT3戦車の改良型をあらたに5輌製造する決定を下した。そのいっぽうで騎兵科では予算不足から高価なT1を大量導入することを断念。ロックアイランド兵器廠を中心にクリスティーの技術を参考にしつつ、彼の発明を元に低コストの試作戦闘車を開発する方向で調整に入った。 1932年6月に兵器局が改良型戦車に出した要求は以下の通りであった。 戦車長が砲手と装填手を兼ねるのは運用上無理がある。歩兵支援強化のためにはふたり乗りの大型砲塔に改めよ。武装は37mm戦車砲を1門、機関銃を5丁装備すること。うち1丁は車体前面に備えることとし、車体への機関銃搭載のため車幅を拡大し、操縦席の右側に機関銃手席を追加すること。すなわち乗員は2名から4名へと増員するものとする。 実戦部隊で実地試験を行なっていたT1とT3は、テストも終盤になってエンジンや足廻りに故障が多発するようになり、車輌を調査したところ抜本的な問題解決のためにはさらに3万8000ドルの巨費を費やして改修作業を施す必要があったのだ。陸軍としてはT3にこれ以上予算を費やして改良を施すよりも、テストで明らかになった欠陥を改良し、用兵上の改善点を盛り込んだ新型戦車開発をクリスティーに対して求めたのである。今回ばかりは陸軍の要求に正当性があったし、パットンのような陸軍内におけるクリスティーの支持者たちでさえもこの決定に否を唱えることはしなかった。 しかし、自信の発明に絶大な自信を持っていたクリスティーは、陸軍からの改良要求に対して、「改良の必要は認めない。T3戦車は現状で完璧な性能を擁しており、現状から手を加えるということは重量増加を招き、この戦車の長所であるスピードを殺すことになる。陸軍の要求は改良ではなく改悪でしかない。もしもT3に至らないところがあったとすれば、それは戦車の性能ではなく陸軍の用兵に問題がある」と回答し、改良型の試作を拒否したのだ。 このクリスティーの傲岸不遜な態度に激怒した陸軍兵器局は、さっそくクリスティーを陸軍省へと呼びつけて兵器局の決定に従うように指示した。だが、いかなる命令も説得も狷介孤高な彼には通じなかった。その後も議論は重ねられたが、クリスティーは一切の妥協に応じることはなく、最終的に両者は物別れに終わった。彼がここまで強気な態度でいられたのは、クリスティー式サスペンションの特許を手中に収めているものと信じていたからであった。だが、ここに思わぬ落とし穴が潜んでいたのである。 1930年に陸軍から融資を受ける際に契約書に記された付帯条件に クリスティーは足をすくわれる 1930年にクリスティーは陸軍からT1とT3の試作番号を与えられたM1931を開発するに当たって、陸軍から5万5000ドルの予算が与えられたが、その際の付帯条件として「クリスティー式サスペンションの特許の一部を陸軍に譲渡する」との一文が契約書に盛り込まれていたのだ。これを盾に兵器局はライバル他社にも特許を公開し、クリスティー式サスペンションの製造を許すことにしたのだ。 この決定はクリスティーにとっては青天の霹靂だった。発明特許を掌握していると信じ切っていた彼は、慌てて陸軍との融資契約の書類を確認した。そこにはたしかに「特許の一部を譲渡」とは書かれていたが、この「一部」とは何を指したものなのか具体的な記述はなかったのだ。怒り心頭のクリスティーはさっそく陸軍省に赴いて激しく抗議した。 しかし、接見に出てきた担当官は「権利の一部譲渡とは、合衆国陸軍があなたの発明の使用権を得るという意味です。この決定は契約書に基づいてのことですし、あなたが納得するかしないかは関係のないことです。この決定は覆りません。どうぞお引き取りを」と繰り返すだけだった。 この対応に怒髪天を突いた彼は「わかった。もういい! 盗人どもめっ! 私の発明を力づくで奪う気なのだなっ!! そっちがその気ならこちらにも考えがある。司法の場で白黒決着つけようではないか!!」と陸軍省内に声が轟き渡るほどの大声で吠える。だが、それを聞いた担当官はフンッと鼻で嗤ってから「どうぞご自由に。あなたに勝ち目があるとはとても思えませんがね……」と冷ややかに答えるのみだった。 契約を盾に強引に特許の使用権を得た陸軍 それに対してクリスティーは法廷闘争を決意する クリスティーと陸軍の特許をめぐる対立は双方の関係が破綻したことを決定づけた出来事だった。陸軍が裁判に勝てばクリスティー式サスペンションは彼の意思とは関係なく使用されることになり、クリスティーが勝っても陸軍は彼の発明を避け、これ以上の取引を重ねることはないことは明らかであった。しかも、法廷闘争へと突き進めば多額の裁判費用がのし掛かることになる。すでに試作戦車の開発で多額の費用を投じており、開発した戦車が陸軍への採用がなくなったとすれば、クリスティーの破産は時間の問題かと思われた。 これから待ち受けている苦難の道のりを思うとクリスティーの表情は自然と険しいものとなった。怒りと失望の表情を浮かべたまま陸軍省から彼自身が経営するUSホイール・トラック・レイヤーコーポレーション(1924年にクリスティー・ダイレクト・アクション・モーターカー・カンパニーから改組)へと戻ると、ことの成り行きを見守るしかなかった社員たちが心配そうな面持ちで出迎えた。 「クリスティーさん、陸軍はなんと言ってきましたか!?」「社長! わが社はこれからどうなるんですか?」「新型戦車の発明特許はわが社にあるんじゃなかったのですか?」と社員たちは口々に不安の言葉を並べ立てる。彼らはクリスティーが試作戦車開発のため、寝食を共にしてきたエンジニアや製図工、工員、事務員たちだ。おおよその事情を察しているらしく、その表情は一様に暗い。 社員たちの不安げな様子を察したクリスティーは、それまでの憮然とした表情を慌てて引っ込め、破顔一笑して宣言した。「陸軍のヤツらは姑息にも私の発明を盗もうという腹づもりらしい。だが、私はこのまま不正を見過ごすことは絶対にしない。裁判で争うつもりだ。この国に正義と公正がある限り、司法はきっと正しい判断をするものと信じている。それにだ。私は世界最速にして最高の戦車を発明したのだぞ? 我々の取引相手は合衆国陸軍に限ったものではない。これまでにだってドイツ人が、ポーランド人が、ロシア人が私の発明を求めてわが社の門を叩いてきたではないか? 顧客は世界中にいるのだ。諸君、だから一切心配する必要はない。心配ごとなど何ひとつないのだ!」と。 過去にクリスティーは様々な発明を繰り返してきた。そのどれもが時代を先取りした革新的なものばかりであったが、その多くはさまざまな不運が重なり、業績が正当に評価されることなく終わってしまった。自身の発明が失敗に終わるたびに、幾度となくクリスティーは無力感や孤独にさいなまれてきた。彼自身の自信過剰で頑迷な性格も災いしたことは否定できないが、今回もあと一歩というところで成功のチャンスはするりと指の間からこぼれ落ちようとしている。老境に差し掛かった今、これが自分に与えられた最後のチャンスかもしれない。共に夢を追ってきた社員たちのためにもここは引けない。絶対に引いてはならないのだ……。クリスティーはあらためて発明の正当な権利を求めて司法の場で戦うことを決意したのであった。 かつてのライバルメーカーによって クリスティーとは無関係に始まったT3の改良型開発プロジェクト 陸軍とクリスティーとの法廷闘争が幕を開けるいっぽうで、陸軍兵器局主導の元、クリスティーの手に依らないT3戦車の改良型開発は進められることになった。 1932年10月に新型試作戦車の仕様書がまとまると、クリスティーの特許公開とともに、複数の会社に入札への参加が呼びかけられた。ライバル他社が入札を見合わせる中、これに応じたのが1910年代にクリスティーのフロントホイールドライブモーターコーポレーションと消防車市場で競合し、勝者となったアメリカン・ラ・フランスだった。同年12月、同社は5輌の試作戦車開発の契約を14万6000ドルで落札した。 こうして開発されたアメリカン・ラ・フランスの試作戦車には、新たにT3E2のマイナーコードが与えられた。この戦車はクリスティーのT1とT3を下敷きに、陸軍の要求に基づいて車体と砲塔を大型化し、乗車定員を4名とした改良型である。クリスティ戦車のリバティエンジンから航空機用のカーチスD12型エンジンへと換装したことで最高出力は435hpとわずかに低下している。足廻りはクリスティー式サスペンションが引き続き使用され、ピッチの短い新しい鍛造リンクトラック(履帯)が採用されたことで、クリスティー戦車の旧来のプレートトラックと比較して走行中に履帯が外れるトラブルが少なくなった。 これらの改良によりパワーダウンと重量の増加にもかかわらず、最高速度は装軌走行時で56km/h、舗装路の装輪走行時に93km/hまでに上昇。クリスティーの重量増加に伴う速度性能の低下は杞憂に終わった。しかし、強力なエンジンに対してトランスミッションとデファレンシャルの耐久性に難があり、操作性にも問題があったことから性能が向上したとまでは言い難いシロモノだった。 製造された5輌のT3E2は、T3が試験配備されたフォート・ベニング(現・フォート・ムーア)駐屯地の第67歩兵連隊に送られてテストが繰り返されたが、テスト期間中に60箇所に及ぶ改良と仕様変更が加えられてT3E3へと発展したものの、結局は欠陥を完全に解消することはできず、T3シリーズにすっかり興味を失った合衆国陸軍は、アメリカン・ラ・フランスとの契約を打ち切り、開発計画を終了させた。 なお、第67歩兵連隊に残されたT3E3およびクリスティーが製造したT3は、共食い整備で車輌を維持しながら1937年頃まで演習や訓練などに用いられたようである。 ロックアイランド兵器廠主導で始まったT4開発計画 バーンズ少佐の独自技術で開発に成功し制式化を勝ち取るが…… 一方、クリスティーのT1をベースにロックアイランド兵器廠主導で開発が進められたのが試作騎兵戦闘車がT4だ。この車輌は騎兵戦闘車T1の不採用と、T2の開発失敗によって製造が決まった車輌で、歩兵科のT3E2と同じく車体と砲塔を大型化した4人乗りで製作されたが、パワートレインの不具合を避けるために、心臓部に268hpへと出力を抑えたコンチネンタル製R670型空冷エンジンを搭載し、車輌重量を7.7tに抑え、48km/hの控えめな速度性能を目指して開発が進められた。 プロジェクトメンバーにアバディーン陸軍試験場の責任者であり、優秀なエンジニアであったグラディオン・マーカス・バーンズ少佐が携わると、彼のアイデアでクリスティ式サスペンションの欠点であった高さのあるスプリングを取り除き、サスペンションを斜めに倒してスイングアームも変更されることになった。また、ロードホイール、アイドラー、ドライブスプロケットは新しく設計され、履帯も新しくなった。これらの設計により元となったクリスティのT1とは大きくかけ離れた姿となった。 1934年6月にアバディーン試験場でT4をテストしたところ、最高速度は計画を大きく上回る80km/hを発揮し、騎兵科関係者の期待を大いに集めた。その後、この走行車輌は武装や防御性能、足廻りをさらに改良したT4E1、T4E2へと発展する。だが、ここで開発関係者にとっては思いもよらぬ事態が発生する。T3シリーズの開発に失敗した陸軍省が順調に開発が進んでいたT4のプロジェクトを政治工作によって横取りし、あらためて歩兵戦車として再設計されることになったのだ。 こうして1935年に騎兵戦闘車あらためコンバーチブル中戦車としてT4は完成した。テストの結果、良好な性能が確認されたことから低率初期量産車として16輌が1936年までに生産され、クリスティー派生の戦車としては生産台数がもっとも多くなった。T4の性能に満足した歩兵科は陸軍長官に対して制式採用を求めたが、この時は予算を理由に却下されてしまう。ロックアイランド兵器廠の技術陣はそれに挫けることなく、ヨーロッパで戦争の足音が聞こえ始めた1939年3月に再度制式化を請願したところ、ようやくM1中戦車として採用が認められることになった。 しかし、この頃になると、第二次世界大戦の初戦で活躍するM3軽戦車の前身となるM2軽戦車の生産が始まっており、調達コストの高さと陸軍による戦略機動の軽視からM1中戦車は本格的な量産計画が始まることなく、少数が生産されたのみでひっそりと姿を消している。なお、もともとT4の開発を主導していた騎兵科は同車の導入を熱望していたが、こちらは予算を理由に退けられてしまった。 特典には新作OVA「タイチョウ・ウォー!」も収録!! 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山崎 龍