【世界の野球9】「肌の色も、経歴も関係ない。野球を楽しんでいるだけ」
選手として出場できず、色川さんが現地で観覧していた試合のようす(2012年当時の映像)
【連載・色川冬馬の世界の野球~アメリカ編(9)~】 2015年から、野球のパキスタン代表監督を日本人の色川冬馬さん(26)が務めている。選手としてアメリカの独立リーグやプエルトリコ、メキシコのリーグでプレーし、その後代表監督としてイラン、パキスタンを指揮した色川さん。これまでの経験を通じて世界各地の野球文化や事情を紹介するとともに、日本野球のあるべき姿を探っていく。 《前回までのあらすじ》 東日本大震災直後にアメリカから地元の宮城県仙台市へ帰り、ふるさとの変わり果てた姿を目の当たりにした色川さん。復学した仙台大学で卒業単位を全て取り終え、大学4年で再びアメリカ独立リーグとの契約に挑戦しようと、米フロリダ州へと飛び立った。
再びアメリカに挑戦
2012年1月、私は契約できるチームを探して、フロリダ州でトレーニングと試合を繰り返していた。フロリダ州へ行ったきっかけは、2011年に出会ったドミニカ出身のベニー・カスティーリョ監督という恩師から声がかかったことだった。ベニーとは日本へ帰国後も連絡を密にとっており、母国は違えど、ベニーも私のように夢を抱き外国人としてアメリカに挑戦した大先輩だった。 私が彼と出会った当時は、すでに指導者としてさまざまな国籍・文化・言語の選手をまとめ上げ、2000年に最高監督賞を受賞し、2003年には指導陣の一人としてフロリダ・マーリンズ(シングルA)を率いワールドチャンピオンに輝く功績を残していた。 そんな彼に大きな影響を受けた私は、野球以外の時間はアメリカにある中南米(パナマ、キューバ、ドミニカなど)のレストランへ行ったり、そこで出会った中南米の人々との交流を楽しんだりして、野球以外の時間も自分なりに楽しめるようになっていた。ベニーとともにフロリダで行われているMLBスプリングトレーニングを視察し、野球関係者の仲間も増え、生きていくためのネットワークが大幅に拡大した時期だった。