【世界の野球9】「肌の色も、経歴も関係ない。野球を楽しんでいるだけ」
ついに独立リーグのチームと契約。ムードメーカーに
その年の5月、テキサス州リオグランデバレーという街にあるホワイトウィングスというチームと契約することができた。ここのチームは、国際色豊かでドミニカ、ハイチ、ベネズエラ、キューバ、メキシコの選手が所属していた。アメリカ国籍を持っている選手が大半であるが、やはり最初は同郷同士で集まり、少し異様な雰囲気があった。 同郷の選手がいない私は、出身国間の利害関係がなく、どの国の選手とも仲良くなりやすいと言うアドバンテージがあった。野球チームという小さなコミュニティーでも、移民の国アメリカでは、最初は同郷の者同士が生きるために肩を寄せ合う。当時から、自分と違う文化背景に違いを持った環境で育った人々に興味があった私は、各国の選手たちが幼少期にどんな環境で野球をしていたのかを練習後や昼食の時間に聞いて歩いていた。そして、誰とでも満遍なく仲良くなることが得意だった私は、いつしかヘタなスペイン語で選手たちの笑いを取り、選手同士を繋ぐ存在になっていた。
ここではみんな、野球を楽しんでいるだけ
ある日の朝食後、拾ったおもちゃのボールと木の棒で、みんなで野球をしていた。野球といっても、あくまで遊びなので、即興で作り上げていくルールや誰も予想しない成功が笑いを呼び、場が和む。さまざまな文化や歴史的背景を持った国同士でも、まさに「遊び=ゲーム」を通して、みんなが一つになっていくのを感じていた。私と同じポジションを守りフィラデルフィア・フィリーズのマイナーで9年間プレイしてきたフィデールが「ここでは肌の色も、経歴も何も関係ないよ。野球を楽しんでいるだけさ。トーマ、野球楽しいだろ?」と言ってくれたことをはっきりと覚えている。 日本にいたときより野球を続ける環境は厳しかったが、一日一日の新たな発見が楽しく、日々グラウンドへ行くのにわくわくしていた。野球をする上で、「こんな発想・やり方があっていいんだ」という発見が選手としての心の余裕を生み、技術力も向上していくのを感じた。アメリカに挑戦して3年、日本にいたときに感じていた、大好きな野球への恐怖と苦痛、そしてギスギスした緊張感に不安を覚えながらプレイする私は、もういなかった。
◆色川冬馬 1990年仙台市生まれ。聖和学園高校、仙台大卒。大学在学中にメジャーリーガーを目指し単身渡米。2年後独立リーグと契約。米・メキシコ・プエルトリコ等のリーグでプレーした後、2013年現役引退。宮城で中学生を指導している中、イランでもユース世代に野球指導。その実績が認められ2014年イラン代表監督就任。16年間で1勝しか出来なかったイランを2015年西アジアカップで準優勝に導き、パキスタン代表監督に就任。9月のアジア選手権でパキスタン代表を初のWBC予選出場へ導いた。リトルリーグのラテンアメリカ野球選手権日本代表監督も務める。 【連載】色川冬馬の世界の野球