母の認知症の兆し。サンマ2匹入り7袋、トマト5個入り3袋…3人家族には多い数を注文し始めた
連載「相撲こそわが人生~スー女の観戦記』でおなじみのライター・しろぼしマーサさんは、企業向けの業界新聞社で記者として38年間務めながら家族の看護・介護を務めてきました。その辛い時期、心の支えになったのが大相撲観戦だったと言います。家族を見送った今、70代一人暮らしの日々を綴ります * * * * * * * ◆台所で娘を上手投げする母 認知症になった親のことを「昔は頭が良くて、しっかりしていて、ああじゃなかった」と嘆く人がいる。私は、家族の脳の変貌を、今が本人なのだと思ったため、精神的には少しは楽だった。しかし、難病とレビー小体型脳症だった父、統合失調症に認知症も加わった兄に比べ、私が誤った対応をしたのが、認知症のみを患っていた母だった。 昭和2年生まれの母は、難病の夫(私の父だが)の介護を7年間して、母が70歳の時、夫が死んだ。母は92歳で亡くなるまで、私に夫の思い出を話すことは一度もなかった。その理由をここで書くと、400字詰め原稿用紙で100枚以上になるのでやめておく。 母の死後、本棚から「痴呆症」「認知症」のタイトルの書籍、新聞の切り抜きを発見した。母の父親は認知症だったので、自分もなるのではと警戒していたようだ。「認知症」は以前は「痴呆症」と言われ、その言い方が誤解を生みやすいことで、国が2004年に変更した。 母は大相撲が大好きで、私が学校に通っている時も会社員になってからも、私が家に帰ると、その日の名勝負をアクション付きで教えてくれた。自宅が仕事場だったので大相撲をテレビ観戦することができたのである。見事な上手投げだった時は、70代でも私のウエスト部分の服をつかんで台所に転がした。 母は80歳を過ぎると、私が力士の勝敗を聞くと、「はて、勝ったかなあ?」と言い、そのうち「えっ、今、大相撲をやっているの?」と言い出した。当時、私の仕事は猛烈に忙しく、残業が多く、都内の会社から家に帰るのに2時間かかり、夕食は外食。休日出勤も多かった。母のことは、「歳をとるとこんなものね」としか考えていなかった。 母の少し変わった性格も影響し、母に対する許容範囲が私の中では広かった。