藤原鎌足とは一体何者だったのか? 乙巳の変を起こした真の目的を考察【古代史の謎】
歴史上、特に古代史上の人物の正体は実に曖昧でつかみにくい人ばかりです。誰でも知っている聖徳太子でも、本当はどんな人で何と呼ばれていたのかなど、わからないことの方が多いといって良いでしょう。中には実在したのかどうかもはっきりしない登場人物も枚挙に暇がありません。 ■偉業を成し遂げた藤原の祖ながら謎が多い人物 古代史の中心人物でありながらその実態がはっきりしない人物はいくらでもいます。その中の一人、藤原鎌足に対して、私は大きな疑問と謎を持ち続けています。まず登場した時の名前は中臣鎌子(なかとみのかまこ)で、中臣氏だと名乗っています。 鎌足が登場する100年ぐらい昔の538年に百済の聖明王から公伝した仏教導入に反対したのは物部尾輿(もののべのおこし)と中臣鎌子でした。この鎌子と後に鎌足と名乗る人物はもちろん全くの別人です。 それぐらい時が経てば同じ氏族の中で同名の子孫がいてもおかしくはないとも言えますが、この件に関しての研究は不勉強で見たことがありません。 また、鎌足の出生については、常陸の国から少年時代に大和に移住してきたとか、飛鳥の小原が出生地だとかといわれていて、はっきりしません。歴史を動かした重要人物にしてはその素性があまりはっきりしない一人です。 中臣氏でありながら、鎌足は中臣神道の家職を担ったことはありません。むしろ辞退して大阪北部の三島地域に隠遁したといいます。私は三島地域は渡来人の一大拠点だったと考えています。 まあ、古代人の出生や素性は曖昧で不明な人物が多いので、これぐらいのことで人物の正体を疑ったり怪しんだりするのもいかがなものかとは思いますが、問題はその後の鎌足の動きで、当時中臣鎌子と名乗った彼は、大権力者だった大臣(おおおみ)家の蘇我氏を645年に中大兄皇子(なかのおおえのみこ=天智天皇)とともに倒します。その大義名分は「蘇我は皇統を汚す者」という事でしたが、本当にそうだったのでしょうか? 現代ではこの辺りの事情もずいぶん研究が進んで、本当の動機は、馬子までの百済重視政策をとっていた大臣蘇我家が、蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)の時代になって、百済ファーストを捨てたことにあったのではないかと言う説があります。私はこの説に賛成しています。 初めて譲位する皇極女帝の後を継いだ実弟の孝徳天皇が難波宮に遷都して大化の改新の詔を宣言し、時代が大きく変わったことを知らしめるのですが、難波宮が完成しないうちに中大兄皇子や鎌足らをはじめとする文武百官はおろか、中大兄皇子の実妹で皇后の間人皇女まで引き連れ、孝徳天皇を置き去りにして飛鳥に帰ってしまいます。その約1年後に孝徳天皇は崩御、皇子の有馬皇子は策謀に嵌められて謀反の罪で絞首刑になります。 乙巳の変で蘇我本宗家を裏切って右大臣にしてもらった倉山田石川麻呂一族も謀反の罪を着せられて抹殺されてしまいます。 古代史を眺めていると、鎌足が登場してからは策謀のレベルが極端に上がり、重要人物の謀殺が激増しています。中大兄皇子を担いで蘇我氏にとって代わった鎌足グループが、何としても独裁権力を奪おうとしているのは明らかです。 海外ではその後も新羅が朝鮮半島でますます強大になり、百済を圧迫してついに660年、百済は滅亡します。次は高句麗に狙いを定めた新羅は、軍団を北上させるのです。その隙を突いて百済再興を企図した中大兄皇子と鎌足の朝廷は、百済からの亡命皇子の余豊璋(よのほうしょう)を推戴して663年に大和の全軍を率いる勢いで新羅と唐の連合軍に挑みます。そしてあっという間に全滅した「白村江の戦い」となるのです。 蘇我蝦夷と入鹿の親子が政治を担っていれば、滅びた百済を大和全軍の総力で再興するために出兵することはまず無かったでしょう。 つまり乙巳の変で周到に用意した策謀で蘇我大臣家を一瞬にして滅ぼし、権力の座に座った鎌足が本当にやりたかったのは百済に大和軍を投入して救援することにあったのではないでしょうか? 救援は結局間に合わず、滅亡した百済を再興する作戦に変更して、初めて重祚した老齢の斉明女帝まで引き連れて九州に赴き、ついに大軍団を出撃させるも全滅したわけです。 この白村江の戦いにはどうみても大和に利がありませんし、唐と連合をしている当時の新羅に勝てる見込みがあるとも思えません。たとえ一瞬の勝利があったとしても百済国を支え続けるメリットも国力も当時の大和国にあったとは思えません。 誰が見ても大和の若者を徴兵されて失うことになる庶民の反感しか買うことは無かったでしょう。そんな国益に反することを蘇我氏がするわけもなく、その蘇我氏を滅ぼして外交戦略を大きく変更させるのが乙巳の変の本当の目的だったとしか、私には思えないのです。 そこまでした鎌足の正体とはどんなものでしょうか? とても大和古来の中臣神道家の人物とは思えないのですが、いかがでしょう?これまでもさまざまな推理が行われていますが、百済からの亡命皇子である余豊璋その人だという人もいますが、私はそうは思っていません。皆さんはどうお考えでしょうか?
柏木 宏之