日馬富士暴行問題で考える ── 相撲界にみえる日本文化の「排除」の力学
大相撲の横綱日馬富士による同じモンゴル出身の力士・貴ノ岩に対する暴行問題が、注目を集めています。 「親密」な握手、ゴルフ、食事、会談……日米同盟の文化的な構図 建築家で文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋さんは、今回の問題からは現代日本文化の“排除の力学”がみえると指摘します。不祥事のたびに厳しい目が向けられ、そのたび自助努力を強調してきた相撲界でどんな排除の論理が働いているのか、若山さんが執筆します。 ----------
現代日本と排除
少し前、このサイトに「風はなぜ変わったか? 衆院選結果に見えるネット時代『排除』と『集団志向』」という記事を書いた。 小池都知事の「排除」発言をきっかけに選挙の風向きが変わったことについて、世界的に異民族異文化の排除傾向が見られること、イジメ、過労死など「家社会」としての日本に独特の排除感覚があること、ネット社会の民意は「個室の大衆」(テレビ社会の民意は「茶の間の大衆」)によって形成され、そこに「集団志向」があること、などから、現在の日本人が「排除」という言葉に敏感になっていることを論じたのだ。 そして今回の日馬富士による暴行事件には、グローバル化する現代日本文化における、排除の力学が象徴的に現れていることを感じる。
日本の中のモンゴル文化
日馬富士は人格的にも知的にも優れた横綱とされてきたので、まさに「青天の霹靂」であったが、ここで「何が真実か、誰が悪いのか、どう処分されるべきか」という、マスコミの議論が集中する核心の問題は初めから「排除」しておきたい。日本文化論として、すなわち周縁の問題を考えたいのだ。 こういった不祥事に対しては、有識者の審議会をつくって対応を協議し、相撲協会の古い体質を改めるべきという意見で収まるのが常であった。しかし今回はそれにとどまらない、日本文化が置かれた複雑な状況が見て取れる。 まず浮かび上がったことは、定常的なモンゴル出身力士の親睦会があって、一つの小社会をなしているということである。 日本という異国に暮らしている同国人がグループをつくるのは自然なことで、薄々は推察されたことだが、その実態が明らかになった。つまり、比較的均一とされる日本社会にも、さまざまな民族の集団があり、それぞれその小社会が形成されつつあるのだ。 そしてそのモンゴル小社会の内部にも、規模が大きくなるにしたがって、ある種の派閥と葛藤が生じつつあるようで、またモンゴルの男性は大酒を飲んで喧嘩するのが日常的で、それは母国の文化でもあるという。 特別に野蛮というわけではない。日本でも少し前まで、大学の運動部や建設現場など、荒ぶる男の世界では、よくある武勇伝であった。むしろ現代の日本が、特に男性の粗暴な振る舞いを禁じる、強く管理された社会となっているのだ。遊牧文化を基本とするモンゴル人にとって、農耕文化を基本とする今の日本はやや窮屈であるのかもしれない。風と、馬と、天幕(テント住居)の民である。 また、モンゴルと日本は言語的な同系性も指摘され、中国をめぐる地政学的な関係重要性も指摘される。いわば中心に対する周縁の文化で、モンゴルやテュルクなど、中央アジアの遊牧民がユーラシア東西の文化交流に果たした役割は小さくない。グローバル化が進む中、この島国が、文化的均質から異文化共生に向かうなら、モンゴル文化に対してもまた他の文化に対しても、ある程度の寛容さが求められよう。 暴力行為とは切り離して、文化には逞しさも必要である。