「”スーパーサイヤ人の闘い”といわれたヘーゲル研究会」、原稿を何度書き直しても「もっと、もがけ!」…哲学者・苫野一徳さんが師匠や担当編集者から受けてきた「教育」の共通項
現代新書創刊60周年記念インタビューシリーズ「私と現代新書」5回目は、『教育の力』、『愛』の著者である哲学者・苫野一徳さん(熊本大学准教授)にお話を伺います。 【最初から読む】“心を燃やす”哲学者・苫野一徳さんが受けた「人類愛の啓示」の正体 3回に分けてお届けしてきた最終回では、苫野さんが師匠の哲学者や担当編集者からどんな「教育」を受けてきたのか、そして、苫野さんにとって特別な現代新書、竹田青嗣+西研『超解読!はじめてのヘーゲル『精神現象学』』についてお聞きします。(以下、敬称略)【#3/全3回】
研究会でも飲み会でも、食い下がっては怒られていた
――初めての著書『どのような教育が「よい」教育か』(講談社選書メチエ)、その実践編『教育の力』、そして『愛』は、いずれも同じ編集者が担当していますね。 苫野一徳(以下、苫野):はい。これらを担当してくださった現代新書編集部の山崎比呂志さんは、私にとって「拾いの神」なんです。 大学院時代、竹田青嗣先生に弟子入りした私は、竹田先生が主催するヘーゲル研究会に参加し始めたのですが、先ほど少しお話したように、私は、哲学によって「人類愛」教が崩壊することに抗って、いつも竹田先生に食いついていました。「それでも『人類愛』は真理なんじゃないか。実現することはできるんじゃないか」とのたまっては、竹田先生に怒られていました。 竹田先生は、哲学というのはどこまでみんなが確かめうる原理を出していけるかという理(ことわり)の知であって、自分の独りよがりな世界観を表明するものじゃない、とよく言われます。それに対して私は、「人類愛を見たこともない哀しい哲学者め!」と、竹田先生の本の余白に書いたりして、もがき続けていたんです。研究会の後の飲み会でも、「理性だけで世界を説明しようなんて狭隘だ!」「もっと人間は世界と一体化できるんだ!」などと、食いついていました。 担当編集者の山崎さんとは、その研究会で出会いました。ヘーゲルをなぜかいつもフランス語訳で読んでいらっしゃって、「なんだ、この人は」と圧倒されたのが最初です。山崎さんは、私が竹田先生に食い下がっては怒られ続けているのをいつもご覧になっていて、変なやつがいるなぁ、と思われていたようなんです。 その後、私は「教育とは何か」というテーマに取り組むようになります。教育学や教育哲学の世界では、こういう大きなテーマに真正面から取り組む研究は、当時ほとんどありませんでした。そんなだいそれたテーマを扱うな、という伝統的空気もありました。 私の研究は受け入れられないだろうな、と悩んでいた頃、山崎さんから「ちょっと、書いたもの読ませてよ」と言っていただいたんです。それが、初めての著書『どのような教育が「よい」教育か』になりました。それから3年後、山崎さんから「そろそろ実践編を書くときでしょう」と声をかけられて書いたのが『教育の力』です。 ――苫野さんが哲学の世界に飛び込んだばかりの大学院生だったころからずっと苫野さんの「もがき」をそばで見ていた人が、苫野さんを筆者として育ててきたのですね。 苫野:はい。山崎さんは「拾いの神」であり、私の「育ての親」です。 ――「育ての親」からどんな「教育」を受けてきたのですか。 苫野:いつも私をバカにしてくださるんです(笑)。最初に出会った頃から「一徳くん、フーコーをフランス語で読んだことないの? 無知だね」とか(笑)。それが私にはすごく合っていて、本当に鍛えていただきました。 竹田青嗣先生もいつも私を叱ってくださっていましたし、今考えると、山崎さんも、竹田先生も、すごくありがたい教育をしてくださったな、と思います。 ――3冊とも、そのように鍛えられて書いたのですか。 苫野:いえ。おもしろいことに、担当していただいた3冊それぞれ、山崎さんの伴走の仕方は全然違いました。 最初の『どのような教育が「よい」教育か』は、若書きでいいからとにかく勢いをもってばーっと書け、と。次の『教育の力』は、新書なので一般の人が読んでわかるようにということを大切にされ、章立ても含めて何度も何度もやりとりしました。 3冊目の『愛』は、私にとって最も大事な哲学的テーマだったので、「育ての親」の山崎さんにどうしても担当していただきたい、とこちらから相談して生まれた本なのですが……。何度書き直しても、「ん-」としか言われないんです(笑)。「まあこれでもちゃんと本にはなるけど、一徳くん、ほんとにこれでいいの?」って。それしかおっしゃらないんです。 「あれっ、まずかったかなぁ」と思って考え直し、書き直して、またお見せするんですけど、また「ん-」しか言われない。具体的な話はあんまりないんです。「もっと、もがけ!きれいにまとめすぎている。もっと、もがけ!」と、ひたすら言われ続けました。そうやって、執筆に2年半かかりましたね。 ――「もっと、もがけ」は、「人類愛」を信じて竹田青嗣さんに食い下がっていた苫野さんを見ていた人にしか言えない言葉ですね。ということは、『愛』は続編があるのですか。 苫野:もう少し深めたい部分もないわけではないのですが、『愛』のように一冊まるごと「本質観取」の本ってほとんどないので、次はほかのテーマで「本質観取」をやってみたいなと感じています。もしくは、『愛』の最終章「愛はいかに可能か」を、もっと実践的、具体的に展開していくかもしれません。……まだ未定ですね。