千葉で空襲体験 生き抜いた女性が伝える「平和と花咲か和尚の功績」
温暖な気候で、「花のまち」として知られる千葉県館山市。かつて、海軍の基地や砲術学校などがあったことから、太平洋戦争で空襲被害を受け、69人が亡くなった。この被害体験をした一人が元美術教諭の松苗禮子(まつなえれいこ)さん(85)だ。戦後、平和を願うとともに、地元で花を広めた和尚の功績を紙芝居で伝えている。館山の人たちも平和への思いを胸に、花を育て続けている。(取材・文・撮影:キンマサタカ/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
3度の空襲被害を受けた館山
千葉県の南端に位置する館山市。南から北上する黒潮のおかげで気候は温暖で、花の栽培が盛んだ。SUP(サップ)と呼ばれるマリンスポーツも人気があり、多くの観光客が訪れる。 海岸沿いを走る道路「房総フラワーライン」(全長46キロ)も有名で、道路周辺には四季折々の花が咲き誇る。 だが、風光明媚なこの地が、太平洋戦争で3度の大きな空襲被害を受け、69人の死者が出たことはあまり知られていない。沖縄の次に米軍が上陸し、激戦地となる可能性もあった。
1936(昭和11)年4月に館山市で7人家族の長女として生まれた松苗さんは、今や戦争を体験した数少ない一人である。 「館山には軍需工場や基地があったから、戦争末期になると敵機が飛んできて爆弾を落としていくんです。空襲は日常茶飯事で、防空壕は自分の家にもあったし、道などいたるところにありました。飛行機がやってくるたびに逃げていました。夜に空襲があると防空壕に飛び込んで、息をひそめながら朝を迎えることもありました。小学2年生の頃です」 空襲で狙われたのはおもに館山海軍航空隊基地だったが、1945年5月には市内に20個余の爆弾が落とされ、27人が犠牲になっている。 松苗さんの戦争の記憶といえば、空襲、そして空腹だ。戦時中はとにかく食べるものがなかった。 「食卓にあがるのはサツマイモ、麦ご飯に、大根やニンジンの葉を刻んだものばかり。真っ白なごはんの真ん中に梅干しを乗せた日の丸弁当なんて食べたことありません。いつもおなかがすいていたから、とにかくおなかいっぱい食べたいと思っていました」 幼い心に刻まれた空腹と空襲の日々の中で、どうしても忘れられない思い出があった。