プロ野球は「慶應式」アマ野球は「早稲田式」いったい何の話かわかる?
日本野球のスコア記入法は「早稲田式」と「慶應式」の2つが併存する。だが、現在、慶應式を採用しているのはプロ野球だけ。この「ねじれ状態」に至った経緯に迫る。本稿は、広尾晃『データ・ボール アナリストは野球をどう変えたのか』(新潮社)の一部を抜粋・編集したものです。 【この記事の画像を見る】 ● 1872年、お雇い外国人が初めて 日本人に「野球」を教えた? 日本に野球がもたらされたのは1872年。第一番中学(のちの東京大学)で「お雇い外国人」として教鞭をとっていたアメリカ人教師のホーレス・ウィルソン(1843~1927)が、学生たちに手ほどきをしたのが最初とされる。 実は日本サッカーも、1873年にイギリスの海軍軍人だったアーチボルド・ルシアス・ダグラス(1842~1913)が、東京・築地の海軍兵学校で学生にサッカーの手ほどきをしたのが始まりだとされる。日本ではほぼ同時期に、欧米の2つの人気ボールゲームが始まったのだ。 ただ、ウィルソンがもたらしたとされるのは「公式」であり、他のお雇い外国人やアメリカからの来訪者が日本人に野球を教えたという話もいくつか残っている。 この時期、アメリカ野球のルールは毎年のように大きく変動していた。こうしたルール改訂は翌年以降、日本にもたらされ「野球規則」は書き改められた。日本が野球の「宗主国」であるアメリカのルールに準拠する姿勢は以後も続き、最近では2017年「申告敬遠」の制度がアメリカで導入されると、日本でも翌年からプロ、アマで導入された。
こういう形でアメリカに追随してルールをアップデートする慣習が続いているから「日米野球」も「NPBからMLBへの選手の移籍」も可能なのだ。 ホーレス・ウィルソンは英語教師で野球の専門家ではなかったが、自身も試合に出た。当時のボックススコアも残されているので「記録」に関してもある程度の知識を伝えたようだ。しかし、それはごくごく原始的なものだった。 日本最古のスコアカードは1896年5月23日に行われた旧制第一高等学校(一高)対横浜外国人チームの試合のものだ。一高野球部員だった草鹿砥祐吉が記入法を考案したとされる。 ● 日本野球のスコアブックは 「早稲田式」「慶應式」が併存 日本野球の公式記録は次第に整備され、1925年の「東京六大学」の創設と共に、ほぼ現在の形になった。しかし今に至るも、日本には「早稲田式」「慶應式」の2つのスコア記入法が併存している。大部分のアマチュア野球、独立リーグでは「早稲田式」でスコアブックを作成しているが、NPBは「慶應式」だ。Wikipedia(2024年5月時点)によれば95%が「早稲田式」、5%が「慶應式」とのこと。 早稲田式は、スコアブックの1つ1つのマスに印刷されたダイヤモンドに走者の動きを書いていくので、試合の流れは分かりやすいが、例えば投手がゴロを捕って一塁ベースに入った二塁手に送球する際など1-4と記すだけで、二塁手が一塁に入ったことは記録できない。