プロ野球は「慶應式」アマ野球は「早稲田式」いったい何の話かわかる?
● そのストライクは、空振り?見逃し? 「記録の神様」の記録漏らし疑惑 1942年にはもう1人の「記録の神様」、山内以九士(1902~1972)が「公式記録員」になった。島根県松江市出身の山内は、慶應義塾大学で「慶應式」のスコア記入法を考案した直木松太郎に師事し、野球記録の研究を進める。 1936年には直木との共著『最新野球規則』を出版、また同年、本格的なスコアブックである『ヤマウチ式野球試合記録帖』も出版した。当然「慶應式」である。さらに島根県松江市在住のまま、日本野球連盟の規則委員になり、公式記録員の広瀬をサポートしていた。 広瀬は慶應義塾大学出身ではないが、「慶應式」でスコアブックを作成した。広瀬の著書『野球スコアのつけ方』(1957年刊)によると、山内以九士が升目を引いただけのシンプルなスコアブックで「慶應式」のスコアをつけているのを広瀬が見て「白い雑用紙にでも記録できるので、この方法を少し簡単にしたようなものを使用していた」とのことだ。 こうしてつけられたスコアブックの記録の表記は記録員により、まちまちだった。職業野球は創設当初から「球数」をつけてきたが、ストライクのうち、空振り、見逃しの別を記録するかどうかは、記録者によって異なっていた。
前出の広瀬の著書『野球スコアのつけ方』によれば、広瀬は空振りの記録を録っていない。 1951年、巨人の川上哲治は424打席、374打数で6三振というプロ野球タイ記録を作った。この年の川上はわずか7回しか空振りがなく、783球連続で空振りしなかったと言われているが、この間、広瀬がスコア記録を担当した試合が含まれていて、そもそも「空振り」を記録していなかったのでは?という疑惑がある。また他にも記録員によって異なる解釈もあるなど、整合性の問題があった。 ● セ・パ両リーグに分かれたことで 記録法を統一できなくなった そこで後年、山内は5000試合を超えるスコアブックを精査、確認し、清書していった。この膨大な作業によって、日本プロ野球の記録は現在に伝えられているのだ。 1950年の2リーグ分立に伴い、広瀬はセ・リーグ、山内はパ・リーグの記録員になった。山内自身は、セ・パ両リーグの記録を統括する特別記録員になることを希望していたが、両リーグ間の反発が激しく、審判も公式記録員も各リーグで別個に雇用し、運営することになったのだ。