朝鮮・中国・フィリピン・インド…秀吉のアジア戦略を昭和の文化人はどう評したのか?
◇評論家・小林秀雄による「豊臣秀吉」論 さらに秀吉は1593年、台湾にも服属を求める書簡を送っている。 逆にフィリピンのスペイン高官のなかには、秀吉が朝鮮半島に力を奪われている今こそ、台湾を征服し防波堤とすべきだという説もおきていた。これもある意味、フィリピン以下、インドへの戦線を構築するために台湾が重要な拠点になるという、秀吉なりの戦略であったのかもしれない。 当時、近代的な意味での国家主権や国境概念は希薄な時代だった。現在の視点から見れば、豊臣秀吉の朝鮮出兵が過酷な苦しみを日本軍にも、また朝鮮民衆にも与えたし、結果として豊臣政権は疲弊、武将たちの団結も秀吉の死後には崩壊し、将来の豊臣家滅亡につながったことは否定できない。 しかし、朝鮮出兵と、その前後におこなわれた「アジア戦略外交」について、『戦国日本と大航海時代』(中公新書)で平川新は次のように評価している。 服属要求といい、征明の通告といい、これらの書簡はインド副王やフィリピン総督に対して、豊臣秀吉という人物、そして日本という国の強大さを誇示したものであった。(中略) あえて明国征服を喝破していることからみれば、両国(スペイン、ポルトガル)が早くからねらっていた明国を、自分が先駆けて征服するぞ、と通告する意図までも感じ取ることができる。(中略) こうした秀吉の言動は、ヨーロッパ最大の強大国に対する強烈な対抗心と自負心を示している。(中略) 秀吉がめざしたのは、世界最強国家スペインと対抗し、アジアを日本の版図に組み込んでいくことだった。言葉を換えれば、世界の植民地化をめざすスペインに対する東洋からの反抗と挑戦だともいえるだろう。 『戦国大名と大航海時代』より そして、この秀吉の精神を、まるでその後の大東亜戦争の歴史を予言するかのように語っているのが、小林秀雄の昭和15(1940)年8月に行われた講演『事変の新しさ』である(『小林秀雄全作品13巻 歴史と文学』収録)。 この講演で、小林は「豊臣秀吉は気宇壮大ではあったが、決して空想家ではなかった。空想や誇大妄想にかられるような人間が天下をとれるわけがない。朝鮮出兵も明国征服も、秀吉のこれまでの豊富な知識と体験から導き出された戦略であった。しかし、結果は惨憺たる失敗であり、秀吉の誤算だったことは間違いない。だが、その誤算は、秀吉が耄碌(もうろく)したなどという『消極的な誤算』ではない」と断定する。 太閤は耄碌はしなかった。戦争の計画そのものが彼のあり余る精力を語っているわけです。彼が計算を誤ったのは、彼が取組んだ事態が、全く新しい事態だったからであります。この新しい事態に接しては、彼の豊富な知識は、何んの役にも立たなかった。 役に立たなかったばかりではない、事態を判断するのに大きな障碍(しょうがい)となった。つまり判断を誤らしたのは、彼の豊富な経験から割り出した正確な知識そのものだったと言えるのであります。これは一つのパラドックスであります。(中略) 太閤の知識はまだ足りなかった、もし太閤がもっと豊富な知識を持っていたら、彼は恐らく成功したであろう、という風に呑気な考え方をなさらぬ様に願いたい。そうではない。知識が深く広かったならば、それだけいよいよ深く広く誤ったでありましょう。(中略) そういうパラドックスを孕らんでいるものこそ、まさに人間の歴史なのであります。これは悲劇です。太閤のような天才は自ら恃のむところも大きかった。したがって醸もされた悲劇も大きかった。これが悲劇の定法です。悲劇は足らない人、貧しい人には決して起りませぬ。 『事変の新しさ』より 豊臣秀吉に対する、また、歴史というものに対する最も深い、かつ逆説的な形でしか現れぬ真理がここにある。
三浦 小太郎