なぜ18歳の落合博満は突如、東洋大の合宿から失踪したのか!?…気が付けば後楽園球場のスタンドにいた「ああ、おれは野球が好きなんだ」
◇増田護コラム~人生流し打ち~ 敵はめっぽう多いが、支持するファンもいる。それが「落合博満」という人である。見聞きしたエピソードでつづるシリーズ。多感な18歳の春。彼は東洋大の合宿を飛び出した。 ◆落合博満さん、歌手としても活躍していた【写真】 ◇ ◇ まもなく大みそかである。秋田の男鹿半島にはナマハゲがやってくる。落合さんは中学生になってやっと「あれは青年団がやっているらしい」と気付いたらしい。芯は強かったのだろうが、毎年泣き叫ぶ純粋な少年でもあった。 人生の分岐点は18歳の春だと筆者は勝手に想像している。わずか数カ月で中退した東洋大時代の出来事を聞いた時にそう思った。和歌山の落合記念館。本紙の渋谷真記者ともども酒を酌み交わしながら監督だった落合さんがしみじみ言った。 「体育会の上下関係が嫌でおれが中退したと思われているけど、本当はそうじゃないんだ。殴られたことなんてなかったよ」 秋田工高時代、野球がうますぎて先輩にやっかまれて退部したが、それでは勝てないから試合の時だけ呼び戻されて入退部を繰り返した話は有名だ。それでも才能を見込まれて東洋大に進んだ。 「家族がお金を出しあって俺を東京の大学までやってくれたんだよな」 寮暮らしとはいえ、当時、地方の学生が東京の私大に進学するのは大変だった。後にプロレスラーになったジャイアント落合さんの母も物心両面で支援してくれた一人。落合さんが巨人時代、「落合」の名前と登場曲に「サムライ街道」を使用する許可を求めにきた時は快諾している。そのジャイアントさんは練習中の事故で亡くなった。30歳。中日の監督に就任する2カ月前の悲劇だった。 さて、落合さんは東洋大の練習中に、肉離れを起こした。ファウルフライを追った時、雨上がりでぬかるんだ地面に足をとられ、痛めた。心情までは分からない。このけがも理由のひとつだったとは思うが、大学野球に魅力を見いだせなくなっていた落合さんは家族への申し訳なさを抱きながら合宿所から突如失踪する。 本人の記憶がはっきりしていたのは日比谷公園で迎えた朝。「子どもの声で目が覚めたんだよ」。次は後楽園球場のスタンド。気が付けば社会人野球の試合を見ていた。「ああ、おれは野球が好きなんだと思った」 傷心の放浪を終え、やがてお金を借りて故郷の秋田に帰った落合さんは、やがて季節工として東芝府中に入り、プロ入り。納得できなければ周囲から何を言われようが自分を通してきたこの人生に安定志向はどこにもない。 「勘違いするなよ。いいか、サラリーマンは違うからな」。よほど危なっかしかったのだろうか、筆者はよくこう言われた。とてもまねはできない生き方である。 ▼増田護(ますだ・まもる) 1957年生まれ。愛知県出身。中日新聞社に入社後は中日スポーツ記者としてプロ野球は中日、広島を担当。そのほか大相撲、アマチュア野球を担当し、五輪は4大会取材。中日スポーツ報道部長、月刊ドラゴンズ編集長を務めた。
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