日本はもはや「刑事司法」に関しては「後進国」であるという「否定できない事実」
「法の支配」より「人の支配」、「人質司法」の横行、「手続的正義」の軽視… なぜ日本人は「法」を尊重しないのか? 【写真】日本人の死刑に関する考え方は、先進諸国の中では「特異なもの」だった… 講談社現代新書の新刊『現代日本人の法意識』では、元エリート判事にして法学の権威が、日本人の法意識にひそむ「闇」を暴きます。 本記事では、〈日本の有罪率が99%を超えるのは「検察の優秀さ」ではなく「刑事司法の異常さ」を示しているという「驚愕の事実」〉にひきつづき、刑事系裁判官の「法意識」についてみていきます。 ※本記事は瀬木比呂志『現代日本人の法意識』より抜粋・編集したものです。
刑事系裁判官の「法意識」
日本の冤罪の原因として人質司法と並ぶもう一つの大きな問題は、刑事系裁判官の判断のはかりの針が、最初から検察官のほうに大きく傾いている傾向だろう。「建前上は『推定無罪』だが、現実には『推定有罪』になってしまっている」ということである。 刑事系裁判官の判断の針がなぜ最初から検察官に傾いていることが多いのか、なぜあそこまで検察官の意向をうかがい、忖度する傾向が強いのか、また、被疑者、被告人に対するバイアスが強いのかは、民事系裁判官を長く務めた私にとっても「謎」だ。 司法官僚である日本の裁判官のキャリアは、任地も職種も、自分で選べるわけではない。たとえば、私が任官したころの初任判事補の任地は、最高裁事務総局人事局が、彼らなりの基準で評価した順に東京から並べ始めるかたちで決定するといわれていた。 そして、東京初任についてみると、姓の五十音順に、民事部あるいは刑事部から、必要な人員を採っていた。刑事部の配属人数は少ないから、五十音順の最初か最後の数人が刑事配属となったのである。そして、東京初任の場合、これで民事系か刑事系かが決まり、その後のキャリアにおける変動はあまりなかった。もっとも、より一般的にいえば、初任の配属はキャリアを決める一要素にすぎなかったし、系列が明確に分かれない人々も相当程度の割合で存在した(系列の明確な裁判官は、相対的なエリート層により多い)。 つまり、個々の裁判官のキャリアがどう決まってゆくかは時代により多少異なるものの、個々人の希望の占める比重はあまり大きくないのである。にもかかわらず、民事系、刑事系、家裁系の裁判官集団についてみると、どの時代でもおおむね似通っている。日本人の個性や生き方、あり方が、所属する、あるいは精神的に帰属する「集団、ムラ」によって強く規定される事態を示す典型的な一例といえよう。そして、こうした系列の中でみるとき、刑事系は、その官僚制と閉鎖性において際立っているのだ。 私は、裁判官を批判してはきたが、民事系であれば、人柄に厚みのある人物も、教養識見が深い人物も、研究者の資質をもった人物も、挙げることはできる。しかし、刑事系については、その層が薄いこともあってか、そうした人間の「幅」があまり感じられない。個性ある人物は、いるとしても多くはない。私が若かったころには、まれに、非常に人間のできた温厚な方がいたものだが、そうした人々はおおむね傍流であった。また、検察官には退官後目立った社会的活動を行う人が時々いるが、刑事系裁判官にはあまりいない。 裁判官の書物も、刑事系の人々のそれは、従来からある「裁判官幻想」に沿い、それを補強・再生産し、そうすることで読者を安心させるレヴェルにとどまり、読者を突き動かすような創造性や力には乏しいものが多い。特に、エッセイ的なものでは自己満足が目立ちやすい。 以上のとおり、刑事系裁判官は、社会から隔離された司法官僚裁判官集団の中でも「もう一重隔離された人々」という印象が強いのだ。 「かつての刑事裁判長には、『被告人は平気で嘘をつく』、『検事がそんな変なことをするはずがないだろう』、あるいは、『国民が皆有罪と信じている被告人をなぜ裁判所だけが無罪とすることができるんだ』などといった信じられない発言を、合議等で堂々とする人も多かったのです。また、今でも、そういう考えをもっている人は決して少なくないと思います。もっとも、少なくとも、裁判員裁判では、そうした発言を合議の場ですることだけは、できなくなったようですね。また、無罪判決を一度も出していない刑事裁判官が一定の割合でいるのも事実です」 これは、私が、前記木谷明元裁判官からじかにお聴きし、引用の許可もいただいた言葉である。 また、私自身が直接に経験したところでも、かつての刑事系裁判官には、「被告人の争い方が悪かった場合には有罪判決の量刑を重くする」という考え方をもつ人がかなりいた。今でも、その傾向はあるかもしれない。しかし、被告人には争う自由があるし、「争い方が悪いかどうか」の判断は相当に裁判官の主観の問題であることを考えると、裁判官の客観性、中立性という観点から問題ではないかと思ったものである。さらに、実刑と執行猶予の選択において、世論の中の厳罰主義的な部分に沿い、平等・公平・公正の原則に反する「見せしめ、一罰百戒」的な志向が強く出やすいことについては、私を含め民事系裁判官のかなりの部分が、違和感を抱いていた。 日本では刑事事件のほとんどが有罪判決となることもあってか、刑事系裁判官の思考パターンは、さまざまな側面で検察官の思考パターンにシンクロナイズしがちであり、一方、検察や警察が間違いを犯すかもしれないという視点にはきわめて乏しい。刑事系裁判官の多数派にとっては、「疑わしきは罰せず」はお題目で、そもそも判断に当たっての葛藤や逡巡があまりみられず、思考停止しているような印象さえ受ける場合がある。木谷氏も言及されているとおり、キャリアを通じて無罪判決を一度も出していない刑事系裁判官さえ一定の割合で存在するのだ。 冤罪が確定した事件やそれが強く疑われている事件における非常識、非合理的な事実認定、論理性の欠如、被告人に対する予断と偏見にも、目をおおわしめるものがある。本書ではテーマと紙幅の関係から取り上げないが、拙著(『ニッポンの裁判』〔講談社現代新書〕、『檻の中の裁判官』〔角川新書〕)の関係記述、また、『現代日本人の法意識』末尾の「若干の補足」で挙げている各文献の記述を参照してみていただきたい。誇張でなく、「これではまるで中世の魔女裁判、かつてのアメリカ南部における黒人被告人裁判と同様ではないか」との印象を抱かせるような判決がまま存在するのだ。 刑事系裁判官のこうした意識、言動、判断については、裁判員裁判制度の導入によっていくらか変化した可能性はあるものの、その影響は限定的なものであろう。たとえば裁判員裁判における合議についても、裁判員のいないところで裁判官たちが「事実上の合議」をしている例はかなりあるといわれるように、司法官僚としての性格が強い日本の裁判官は、場面によって「顔」を使い分けることには慣れているのである。 なぜ刑事系裁判官の法意識が以上のようなものとなりやすいのかについては、すでに記したおり、私にも未だによくはわからない。木谷氏さえよくわからないと言われる。しかし、可能な限りであえて分析、推測すれば、以下のようになる。 第一に考えられる理由としては、(1)「最高裁に対する忖度。無罪判決がキャリアにおいて不利にはたらく可能性」があるだろう。しかし、それだけでは説明しにくい根深いものも感じるのだ。加えるとすれば、次のような理由が挙げられるかと思う。 (2)刑事訴訟は民事訴訟ほどヴァリエーションがなく、訴訟指揮や判決についても高度な法的知識が要求される度合は、一般的にいえば小さい(むしろ、陪審員のような普通の市民のコモンセンスが生きる領域である)。そのため、裁判官が、専門家としての実質のある自信、自負をもちにくい。 (3)日本の裁判官には、近世以前から、また戦前から引き継がれた行政優位の法文化・伝統の下で、国家や政治・行政の権力チェックをためらう傾向が強く、民事関係では行政訴訟やいわゆる憲法訴訟にその傾向が顕著だが、国家の直接的な権力作用である刑事訴訟については、その傾向が一層強い(刑事訴訟では、日本の裁判官の「司法官僚」的性格が、治安維持第一、有罪推定という方向で強く表れやすい)。 (4)前記のとおり、検察は一体として事実上の強大な権力をもっており、表面上は裁判官を立てていても現実にはあなどっている。個々ばらばらの裁判官は、比較すれば無力で、検察官に堂々と対抗してゆくことのできる勇気と実力のある人が少ない。 (5)刑事系裁判官は世論の影響を受けやすく、特にマスメディアによって醸成される検察・警察寄りのそれには弱い。 まとめると、刑事裁判官は、世間からは司法権力の象徴のように思われ、法廷でも表面的には民事や家裁の場合より尊重されているように見えるものの、現実にはその専門家としての精神的基盤に、弱い、もろい部分のあることが、問題の根本原因ではないだろうか。 私が若かったころ、司法修習生の間では、検察官は、法曹三者中最も人気がなく、ほとんど、なろうと思えば誰でもなれる状態だった。司法研修所の検察官教官は、法学部在学中合格者等の優秀な修習生を一本釣りする場合には、「君は、必ず高等検察庁の検事長まではいけるから」などと、事実上言質を与えるに等しいことまで言って任官を促す例があった(付け加えれば、そうした修習生には、実際そのポストまでいった例が多い)。一方、裁判官の人気は今よりもずっと高く、たとえば、当時は一年間に数名しかいなかった判事補留学者については、まだ若くても、一流の渉外弁護士事務所から、「すぐにパートナー弁護士(共同経営者弁護士)にしてあげるからきませんか?」という破格の誘いがかかることもあった。 しかし、近年は、裁判官の人気が下がっており、司法修習生獲得競争でも総体として大規模弁護士事務所に負け気味という、かつては考えられなかった事態が起きている。また、中途退職者も増えており、ことに、相対的な優秀層に属する裁判官が東京およびその周辺からの異動時期にやめてしまう例が目立つという。一方、検察官の人気は昔よりも上がってきている。特に、検察庁は、私学のトップレヴェルの学生を狙い撃ちにする傾向が強いようだ。これは、「名よりも実を取る」という意味では、よい方法なのである。有名私学のトップクラス学生は、その割合こそ大学によって異なるものの、東大、京大の平均レヴェルよりも上の資質、能力をもっている例も多いからだ。 平均的にみれば裁判官の能力が検察官よりも相当に高かった昔でも、刑事系裁判官は、前記のような理由からか検察官(ないしはその背後にある一体としての検察およびこれに同調する裁判所当局)の方を向き、その顔色をうかがいがちだった。上記のような昨今の状況では、その傾向がさらにひどくなっているのではないか、ゆくのではないかを、私は、憂慮している。 なお、これは、実をいえば、民事系裁判官についても同様にいえる問題である。弁護士や検察官が裁判官の訴訟指揮に従うのは、「裁判官の能力を認めて」という前提あってのことなので、平均的な裁判官の能力が期待されるラインを割ってしまうと、法廷の適切、円滑な運営自体が難しくなってしまう。裁判官キャリアシステムの制度疲労は、こうした側面でも進行しつつあるのだ。
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