日本はもはや「刑事司法」に関しては「後進国」であるという「否定できない事実」
冤罪に関する人々の法意識
最後に、冤罪に関する現代日本人、国民一般の法意識についても考察しておきたい。 刑事訴訟に関するインターネット空間の言説をひととおりさらってみたところでは、現代日本におけるよき市民の冤罪に関する最大公約数的な法意識・感想は、「冤罪など自分にはかかわりのないことだと思っていたのだが、どうも、そうでもないようだ。もしもそうであるとすれば恐ろしい」といったところではないかと思われる。 このことに関連して私が思い出すのは、アメリカの大学で哲学・倫理学を教えている教授の、次のような言葉だ。 「最近の学生(ロースクールの学生ではなく一般学生)は、公的な正義に関する意識が極端に低くなってきています。たとえば、冤罪被害者について具体的な事例を挙げて討議を行っても、出てくる意見、感想は、少なくとも最初はお粗末で、『オー、ゼイアー・アンラッキー(いやあ、不運な人たちもいるんですねえ)』というレヴェルのものすらままある有様です。『自分や家族、周囲の人間に関係がなければ別にいいや。要するに彼らは不運だったんだよ』ということなのです。実に嘆かわしい」 これに対して、私も、「アメリカの学生たちも、随分内向きになってきているんですね」などと応答したのだが、さて、一人になってからじっくり内省してみると、日本のよき市民の先のような感想も、突き詰めれば、「オー、ゼイアー・アンラッキー」というのと同じことなのではないかと気付き、あらためて愕然(がくぜん)としたのである。 近年のアメリカでは、社会的分断が強まり、経済的に中位以下の人々の社会的疎外が進むにつれ、精神的な側面での荒廃傾向は否定しにくく、特に、モラルの側面における劣化がはなはだしい。 だから、現在の日本の「よき市民」の冤罪に関する法意識が、モラルが著しく低下した現代アメリカにおける「嘆かわしい学生たち」のそれと、「文化の相違からくる表現の直截(ちょくせつ)性の差こそあれ、実質的にみればさして変わらない」ことには、やはり、がっかりせざるをえないのだ。 『現代日本人の法意識』第7章でもふれるが、マスメディアの報道もひどい。おおむね警察・検察の情報の無批判な垂れ流しで、被疑者は暗黙のうちに犯人と扱われがちだ。再審についても、再審開始決定や再審無罪判決が出たときだけは、裁判所、国家がよいことをしたわけだから大きく報道するが、再審請求棄却決定や再審開始決定取消しの場合には、せいぜい、特別によく知られた事件について、おざなりな両論併記のコメントを付けて小さく報道する程度である。 そして、こうした決定に関するある程度掘り下げた分析についてすら、幹部が、「そもそも、判決、決定についての掘り下げた分析や批判など、新聞に載せるべきではない」などといった信じられない反応をするという話を、記者・元記者たちから聞くことさえある有様なのだ。 たとえば、前記郵便不正事件についてみると、「朝日新聞」は、村木氏逮捕後の社説(2009年6月16日)で、「村木局長は容疑を否認しているという。だが、障害者を守るべき立場の厚労省幹部が違法な金もうけに加担した疑いをもたれてしまった事実は重い」、「〔……〕キャリア官僚の逮捕にまで発展し、事件は組織ぐるみの様相を見せている。なぜ不正までして便宜を図ったのか。何より知りたいのはそのことだ」との驚くべき記述を行っている。「特捜検察に逮捕されたこと自体が社会的な罪だ。推定有罪だ」といわんばかりなのである。 ここで、『現代日本人の法意識』第4章で引用した次のような内容の記述を思い出していただきたい(『お白洲から見る江戸時代』)。 「お白洲において一般的には砂利の上でなく縁側に座ることを許されていた身分(武士、僧侶等)の被疑者も、未決勾留を命じられるとともに、突然縁側から地べたの砂利に突き落とされて縄で縛られる。ここには、嫌疑を受けること自体を『罪』とする江戸時代の人々の見方が表れている」 先のような記述を社説で堂々と行う記者たちの「法意識」と江戸時代の司法官僚たちの法意識が実際にはいかに近いものであるかが、理解されるのではないだろうか。 もっとも、村木氏無罪判決後、朝日を含め各紙は一転して検察批判に転じた。だが、同じように無罪になった場合でも、村木氏のような地位、肩書をもたない人間の場合には、マスメディアは、名誉回復には到底及ばないような最小限の扱いしかしないのである(以上につき、牧野洋『官報複合体──権力と一体化するメディアの正体』〔河出文庫〕。なお、この書物の行っている日本のジャーナリズム批判は一々もっともだが、それとのコントラストを付けるためか、アメリカのジャーナリズムについては光の側面のみを取り上げている印象はある)。 私は、被疑者・被告人の権利ばかりを言い立てるつもりなどない。しかし、推定無罪の原則、「疑わしきは罰せず、疑わしきは被告人の利益に」の原則は、いわば近代刑事司法のイロハである。それは、犯罪者を守るための原則ではなく、あなたや私、その家族や友人・知人、そして、名も知らないけれども人間としての同胞である無辜(むこ)の人々が被疑者・被告人となった場合に、私たちと彼らを、冤罪という名の国家による重大な過ちから守るための原則なのだ。 しかし、刑事司法をめぐる日本の現状をみる限り、冤罪に関する現代日本人の法意識は、誰もそれを明示的に口にはせずとも、あえて意識の高みに引き上げて言葉を与えるなら、次のようなものなのではないだろうか。 「よくはわからないが、日本の刑事司法に問題があるとしても、冤罪はまれなことなのではないか。それに、冤罪被害者はお気の毒とは思うものの、やはり、犯罪がきちんと取り締まられ、犯罪者が確実に逮捕、処罰されることのほうが、より重要なのではないだろうか」 こうしてあからさまに言語化されたものを読むと、『現代日本人の法意識』第4章の「犯罪と刑罰に関する日本人の法意識」の項目における同様のまとめの場合と同じく、不快に感じる方々もいるかもしれない。私自身、私の疑念が杞憂(きゆう)であってくれればと思う。 だが、現実をみれば、本章で論じたことからも明らかなとおり、日本は、今ではもはや、刑事司法、刑事訴訟手続の適正に関しては、「後進国」であることが否定できなくなりつつある。それは、おそらく、動かしにくい「事実」であろう。日本の刑事法学が「学問」としては洗練されているとしても、上記の「事実」自体が変わるわけではない。また、そのような刑事司法の状況が、「ムラ社会の病理」の一端であり、「日本社会の中の『前近代的』と評価されても仕方のない部分」であることについても、議論の余地はあまりないと考える。 そして、そのことについては、私にも、あなたにも、日本の市民の一人としての責任がある。
瀬木 比呂志(明治大学教授・元裁判官)
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