人間は差別するものなのか? ハンセン病と新型コロナ、重なる構図
人が恐れるもの
新型コロナの流行を契機に感染症に関するニュースに触れる中で、人間が何に恐れているかに気付かされる。一つは感染すること。もう一つは、被差別の立場に置かれること。 こんなデータがある。 三重県伊賀市が2015年に市民を対象に行った意識調査で「子どもの結婚相手がハンセン病回復者の家族だったら?」と尋ねたところ、「問題にしない」「迷いながらも問題にしない」という回答が、あわせて49.7%だった。一方、「考え直すように言う」「迷いながらも考え直すように言う」との答えが44.2%に上った。現代でも4割以上の人が、わずかでも偏見を受ける可能性を恐れているのだ。 当事者にとって、差別は生やさしいものではない。療養所入所者のほぼ100%が完治しているハンセン病でさえ根強い偏見があり、それは親族や子孫まで追いかけてくる。新型コロナで苦しむ人に対してはSNS上で罵詈雑言が浴びせられ、デマが流されることも少なくない。 ハンセン病家族訴訟弁護団の共同代表を務めた徳田靖之弁護士は、こう話す。 「心を痛めています。誰も好き好んで感染するわけではないのです。まさにハンセン病問題の教訓を私たちの社会がきちっと学んでいないことの表れではないでしょうか」
諦めと願い
私が取材させてもらったハンセン病回復者やその家族は言う。「人間は差別をしてしまうもの」「ハンセン病がある限り、差別はなくならないのでは」と。 一方、こんな願いを口にする人もいる。 「HIVやSARS(重症急性呼吸器症候群)といった他の病気に対しても偏見を持たず思いやりの心を持ってほしい」 国立ハンセン病療養所多磨全生園(東京都東村山市)で自治会長を務め資料館の運営にも携わった佐川修さん(故人)の言葉だ。2003年のインタビューだったが、同様の思いは、その後私が岡山県のふたつの療養所を取材する中で何度も耳にした。 まさに筆舌に尽くしがたい苦難を味わった人たちの、唯一の願いと言っても過言ではないだろう。つらい思いをするのは自分たちで最後にしてほしいと……。 新型コロナ感染者がネット上の書き込みに心を痛め、中傷を受けていた女子プロレスラーの死(遺書らしきものが見つかったと報じられている)が明らかになる中で、SNSの投稿に対する法規制の議論が浮上している。もし何らかの対策がとられれば一定の効果は見込めるかもしれない。しかし、法規制しなければ中傷がなくならない世の中を、果たしてハンセン病回復者の皆さんは望んでいただろうか。日々のニュースに触れながら、そんなことを考えている。