野球に未練は「ないですね」…大学ジャパン主将も経験“元・楽天ドラ4選手”がナゼ教育学の准教授に?「野球じゃなくても教えるのが好きなので」
今から20年前の2004年、球界参入直後の楽天にドラフト4位指名で入団した西谷尚徳さん。明治大では大学ジャパン主将も経験した名選手は、2010年の阪神移籍→戦力外通告を経て現在は立正大で准教授を務める。球界でも異色のキャリア転身のウラには、現役時代から貫いた「文武両道生活」があった。《NumberWebインタビュー全3回の3回目/最初から読む》 【写真で比較】「な、なんてアカデミック…!」大学准教授に転身した元・楽天選手の超インテリな42歳の現在と、トガっていたプロ時代…日本代表の主将もつとめた大学時代の姿も見る プロ野球選手時代の西谷尚徳は、常に引退後のセカンドキャリアを描きながら過ごしてきた。 それが、教師である。 楽天時代に右ひじを手術するなど故障に悩まされていたこともあり、早い時期から通信教育での大学院進学の準備を進め、引退までに教育学の修士号を取得した。
現役生活は「いつか終わる」ということは頭に置くべき
もちろんこれは西谷にとっての答えであり、プロ野球選手全員に示すべき道ではない。 「私の場合は野球以外のことを考え、実践することで、それが逆に野球を助けてくれることもありましたけど、引退するまで野球に専念することももちろん大事です。ただ、共通して言えることは、『いつか終わる』という事実を念頭に置いて取り組んだほうがいいとは思います」 西谷が20代の若さで2度の戦力外通告――実社会の表現を用いれば“クビ”となったように、プロ野球は厳しい競争社会である。 真剣に二兎を追ったのも、西谷のなかにはこんなビジョンが刻まれていたからだ。 野球は、いつか終わるもの。 教師は、いつまでも続けられるもの。 大学時代からそうだった。野球と勉強の両立は、周囲からすればどっちつかずに映っていた側面もあったのかもしれない。だが、西谷にとって「両立」にこそ意味があった。 「人生というのは、必ず人と繋がっているので。そのことを理解して自分の人生設計をしていけば、その分野でいい出会いがあったり、思わぬところで人生の転機になるような言葉をいただけたりするので。それが、ゆくゆくは仕事に結びつくこともありますからね」 西谷のセカンドキャリアのスタートが、まさしくそうだった。 2010年12月。阪神を戦力外となった西谷は、新たな生活に向け動き出した。 国語の教師を募集している学校や学習塾の専任講師を中心に、教鞭を執れそうな舞台であれば履歴書を送り続ける。仕事が固まるまでは、家庭教師や出版物を小売店などに卸す取次店でアルバイトをして生活を繋いだ。 ここにも、西谷の狙いがあった。 「先生になったら生きると思ったんです。家庭教師は教える仕事ですし、取次店は活字に触れられるので。次のキャリアに進む上で、アルバイトでも『こういう仕事を経験してきました』と説明できたほうがいいと」 目的が明確なアルバイト生活を経て、西谷は人によって教壇へと導かれた。 立正大は、同校OBでアスレチック・トレーニング学者の小山啓太が繋げてくれた。西谷が明治大4年で大学日本代表に選ばれた際にトレーニングコーチだったのが小山で、母校で講師を務めていた11年に「俺の授業で話してくれないか」と頼まれたのがきっかけだった。そこでの西谷の講義が大学の教員に評価されたことで、非常勤講師となった。
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