消滅後に脚光を浴びるのは"大物"の証拠 破天荒さでAZ-1の右に出るクルマなし
平成のABCトリオ完成!!
そして軽自動車スポーツの最後に登場となったのがマツダAZ-1で、ビートの登場から1年半遅れで1992年10月にデビュー。車名はAZ550 SPORTSではなく、AZ-1と変更されていた。 クルマ関連でABCといえば、アクセル(Accelerator)、ブレーキ(Breake)、クラッチ(Ckutch)と自動車教習所で習ったかと思うが、AZ-1、ビート(BEAT)、カプチーノ(CAPPUCCINO)の頭文字をとって『平成のABCトリオ』と呼ばれた。 同じ軽自動車スポーツでも、似たところがまったくなくそれぞれがオリジナリティをいかんなく発揮。三者三様でそれぞれが独自のスタンスを追求しているのが凄い。
伝説の平井氏が開発を担当
AZ-1の開発責任者は平井敏彦氏。平井氏と言えば、ロードスターの生みの親で、初代のユーノスロードスターの開発責任者だったことで有名。『クルマは走って楽しくなきゃ』ということをポリシーとしている方で、AZ-1にはその開発理念が随所に盛り込まれていた。 市販車としては少々過剰な部分があり賛否分かれたが、日本のスポーツカー史に確実に名を残す個性はスポーツだったのは間違いない。 平井氏はマツダ退社後には、大学で教鞭をとり後進エンジニアの育成に励むなど尽力されていたが、2023年4月11日に永眠された。
スズキからエンジン供給
1980年代中盤のマツダは、ライトウェイトスポーツカーを創り出す、新たなジャンルのクルマの提案、軽自動車の復活、という3つの目標を掲げていた。はユーノスロードスターで実現、は日本では販売面で苦戦したが初代MPVで実現。そしては1989年にスズキのアルトのコンポーネントを使って誕生した2代目キャロルで実現。 マツダは販社から軽自動車の復活を強く要望された結果、スズキとの関係構築に成功。AZ-1はその産物のひとつで、画期的なスケルトンモノコックフレームはマツダオリジナルながら、エンジンはアルトワークス用の直列3気筒DOHCターボを搭載。ちなみに東京モーターショー1989に出展されたAZ550 SPORTSは、スズキとの軽自動車での協業が決まっていなかったため、エンジンはミラターボ用のものを搭載していた。 スズキのエンジンを使ったAZ-1は、スズキではキャラの車名で販売され、数が少ないと言われるAZ-1よりもさらにレアなモデルだ。それにしても1993年から1995年までの約2年間、何よりも効率を重視するスズキがカプチーノとキャラという2タイプの軽スポーツを販売していたのは凄すぎる事実だ。