「俺は間違った法律には従わない!」「お前が法律に従わないと世の中が乱れる!」…世の中の「ルール」をめぐる「大激論」
人間の「本性」に問う──自然法論
だが、もしあなたが「こんな法律はおかしいから従う意味がない」と考える時、あなたは法律に優越する正しさ、というものを信じていることになる。そのときあなたは、一国家の中の議会が定めた法律なんかよりも、世界でいつの時代にも共通に認められる正しさ、たとえば理性だとか、人道だとか、人間としての良心だとかに従うべきだ、と考えていることになる。 このような、実定法に優越する効力をもつ法が存在することを信じる思想が、自然法論と呼ばれるものである。 いかなる民族であれ、人間であればまず否定しないであろう掟というものはたしかにある。たとえば、イスラエル民族と神との間の契約であるモーゼの十戒の中の「殺してはならない」「盗んではならない」「隣人の家を侵してはならない」は、さしあたりどの国でも通用するだろう。 また、「自己保存せよ(つまり生きよ)」「真理を求めかつ語れ」「約束を守らなければならない」「他者を害してはならない」「所有権を侵してはならない」なども、ヨーロッパ中世までのいわゆる古典的自然法(神の永久法から自然界に流れ出したとされる法)の内容として、人が定める法律の上位にあるものとされ、これらに反する法律や政策は無効と考えられていた。 これらの掟は、キリスト教圏で唱えられていたとはいえ、宗教や民族、時代の別なくおおむね納得されるものだろう。前述の、近世に主権論を確立したボダンでさえ、主権は自然法に服従しなければならないと主張していたのである。 自然法論は近代になると、「人間の本性」というものによって根拠づけられ、説明されるようになった。では「人間の本性」とは何だろうか。 「人は生来社交的である(だから平和に社交的であれ)」(フーゴー・グロティウス)とか「人は自分の身体を所有して生まれてきた(だから、自分の身体を保全しなければならない)」、「人が自力の労働で獲得したものはその人の正当な所有物である(だから他人はそれを侵してはならない)」(ジョン・ロック)等々、いわゆる近代自然法論者たちによって、いろんなことが「人間の本性」と指摘され、自然法の根拠とされた。 しかし、この「人間の本性」という概念はくせものである。なぜなら、人によって何とでも言えるからである。 たとえば「人は社交的である。何の不自由がなくても交流する傾向がある」と考える人もいれば、「万人は万人に対して狼である。人は本来、自分が生き残るために他人を押しのけ、犠牲にしても構わないと思っている」(トマス・ホッブズ)と考える人もいる。 また「個人の自己労働の所産である所有権は守られねばならない」という自然法は、資本主義社会に生きる人々にとっては至極当たり前のルールと思われるだろうが、それに対して「そもそも人間は所有権なるものを持たなかったが、その時代はみんな平等でよかった。 所有権などというものが生じてから、不平等、貧富の差、支配─隷従という悪しきことが起こった(だから所有権をすべて共同体に譲渡せよ)」(ジャン゠ジャック・ルソー)と反論する人もいる。 こうなると、「人間の本性」なるものは客観的・普遍的に存在するものというより、論ずる人の思考の仕方やキャラクター、そしてそのお国柄、時代背景に左右される主観的なものという気がして、普遍・不変の法の根拠としてはどうにも危うい。 さらに連載記事<あまりに理不尽…「働いたことがない無職の中年男性」が「元妻からもらったお金」で買った宝くじで当たった「300億円」のゆくえ>では、私たちの常識を揺さぶる「問いかけ」から法哲学の面白さ楽しく解説しています。ぜひご覧ください。
住吉 雅美