インターネットの「世界線」 狼狽生む速さの追求、市場と承認欲求の罠から自立する道は
フィルターバブル、エコーチェンバーと呼ばれる現象が、現代人から考える力を奪っている。新型コロナウイルス禍の過激な反ワクチン運動、米大統領選に絡む連邦議会占拠事件…。近年、国内外で起きた騒動は、SNS上で影響力を持つインフルエンサーの意見をうのみにし、陰謀論に支配された顛末(てんまつ)ともいえる。
SNSがなければ、インターネットなどなければ、こんなことは起きなかった-。そんな「世界線」を求めたい衝動にも駆られるが、文明を切り開く技術革新は、人間の心身を丸ごと強引に、次へと突き動かすものだ。
《肉体の禍福のみならず其(そ)の内部の精神を動かして智徳の有様をも一変したるもの》
「西洋事情」の刊行から13年後の明治12(1879)年、福沢は「民情一新」という著作を世に出した。そこに記されたのは、傳信をはじめとする新技術を前に狼狽(ろうばい)する民衆の姿。その上で、こう結論づけている。
«結局我社会は今後この利器とともになお動きて進むものと知るべし»
「情報技術は、SNSのプラットフォームを通していやおうなく、私たちを市場からの評価や共同体からの承認のとりこにしてしまう」。ネット時代の困難をそう表現する宇野は、そこから脱し「何者でもない存在」になる機会を確保する重要性を説く。
読書でも、趣味でもいい。自分がそれを行うこと自体が喜びであるような生活。もちろん、そのためにネット、SNSは大いに活用する。承認や評価を他人に委ねない「弱い自立」(宇野)が重要だという。
昨年8月、NTTは電報サービスの廃止に向けた議論の必要性を提言した。ネットの普及に伴い利用者が激減しているためだ。明治の人々を困惑させた「利器」は役割を終え、姿を消そうとしている。
「インターネット元年」とされるウィンドウズ95の発売から今年で丸30年。世界を一変させ、狼狽させる技術を乗りこなす、「元年」になるのかもしれない。=敬称略
■「世界線」本来は物理学の用語