歴史は「物語の文化」と「契約の文化」との葛藤(下)
イスラム教という宗教物語
「神は死んだ」とニーチェが言ったように、西欧の近代化は、宗教から科学への転換の意味が強かった。これを極端に進め「唯物弁証法」という新しい物語によって宗教を完全否定したマルクス主義の凋落とともに、逆にこれに抵抗する宗教原理主義が台頭する。中でもイスラム教は強力な宗教的物語であるようだ。あるいは先に述べた民族主義も加えて、こういった思想は、方向としては異なりながらも、その物語性ゆえに共同歩調を取ることもあるのだ。 そういった抵抗の物語が先鋭化してテロリズムとして現れることがある。もちろん世界の市民社会にとっては許しがたい行為であるが、これを洗脳という言葉で片づけていいものかどうか。その行為の背後にある、人間とその社会がもつ文化の深淵から湧き出る力学を感じてもいいような気がする。 どのような物語にも危険はついてまわるのだ。人間の社会から宗教的な物語文化をなくすことはできない相談であろう。
トランプ大統領にもアメリカ文化にも物語がある
現在のアメリカが、契約文化一辺倒であると考えれば、世界情勢の本質を見誤る。 アメリカにはアメリカの物語があり、トランプ氏にはトランプ氏の物語がある。僕の経験からも、アメリカ人、あるいはアメリカ文化には、強い物語性があり、それは主として開拓時代に築かれたものであるように思われる。 またアメリカファーストを主張するトランプ大統領とラストベルトの労働者たちに共通する物語から見れば、ヒラリー・クリントン候補、民主党支持者、ニューヨークタイムズやCNNを代表とするマスコミなど、どちらかといえば知的エリートの陣営は、契約の文化として映るのだろう。 しかし日本人は案外、こういったトランプ氏の物語を理解しているような気がする。前に書いた「アメリカ文化と日本文化の意外な共通点」という記事は、そのことに関連して、二つの国の文化に物語的共通項を見つけようという試みであった。いずれにしろ今後の日米関係が、単なる軍事同盟ではなく、文化的な深みに及ぶことを期待したいものだ。 ZOZOの経営から身を引くことになった前澤友作氏は、これからの人生において新しい物語をつくることができるだろうか。興味深い。事業の成功だけが、人生の物語ではないのはもちろんのことである。