渋谷区「路上飲酒規制」に賛否両論…国・自治体が “文化の有無”を判断するのはありか?
文化には「法規範性」が備わっていない
そもそも、何らかの「文化」の有無と、国や区が法律や条例によって規制を行うことに関係はあるのだろうか。 行政による規制や自由権の問題に詳しい杉山大介弁護士は、「文化」には、法的な規制を正当化するための基準や根拠となる「法規範性」が備わっていない、と指摘する。 一方で、法令や規範の解釈に文化が関係する場合はあるという。 「例として、何らかの物を売買する契約をしていく過程で、当事者同士が話し合いを行っている途中にトラブルが発生したとします。 その際、『契約は成立していたか否か』を判断する必要が生じますが、『どのような書面を交わして合意に至るのか』『書面は契約としての意思表示なのか、それとも契約交渉を始めるための誘引なのか』などは、取り引きに関する法文化によって異なるため、判断にあたって法文化も考察することが必要となります」(杉山弁護士)
規制を正当化するためには「客観性」が必要
一般論として、国や自治体が「文化」を持ち出すことについては、政治的な論争が起きやすい。 たとえば、いわゆる「保守派」が学校教育の指導要領や改正憲法案などに関連して「文化」や「伝統」を持ち出し、それに対して、いわゆる「左派」が批判する、という事態はこれまでにも多々生じてきた。つまり、行政が「文化」を持ち出すことはセンシティブな問題といえる。 杉山弁護士は「そもそも、持ち出されている『文化』が実際に存在するのかどうか、という点から注意が必要です」と指摘する。 一方、上述したように文化は「法規範性」を持たないが、社会において文化が別種の「規範性」を有する場面もあるという。 「ただし、文化が規範的性質を発揮するためには、その規範に人々が従う、一定の実質的な理由を伴っていることが必要になります。 例として、母集団の一般多数が『〇〇という文化は存在する』などと認識しているという事実があれば、その認識に一定の規範性が伴っても、仕方ないかもしれません」(杉山弁護士) 今回の場合、実際に渋谷区民のうち多数が「渋谷には路上飲酒の文化はない」と認識しているとすれば、その認識が「路上飲酒の規制」を正当化する理由や根拠を与える、ということだ。 だが、区長のような権力者が、安易に「区民は『渋谷には路上飲酒の文化はない』と認識している」などと主張して規制を正当化することは許されない。文化に対する「認識」について、何らかの形で客観性を担保することが必要となる。 「たとえば、統計的な調査に基づいて『渋谷区民はこのような認識を抱いている』と主張するのであれば、エビデンスに基づく主張だと評価できます。 ただし、裁判所などの法律の分野でも、『文化』『常識』『経験則』などの言葉はいい加減に扱われており、反省すべき点が多いといえます。 例として、判決文において裁判官は『通常人の思考として~』などと、経験則を平然と用います。しかし、その『通常人』や『思考』の存在に関する証明責任は放棄しているのです」(杉山弁護士)