【証言・北方領土】水晶島と国後島・元島民 佐藤健夫さん(3)
父は国後島に母を迎えに行った
―10月下旬に3兄弟で根室に渡った。その後、お母さんとお父さん、どちらが来るのが早かったか? これはね、父親だったと思います、先に。父親はね、10月の中ころかな。合流して、だから、父親はね、その母親と、そのばあさんとか兄弟残ってるもんだから、無鉄砲ってや無鉄砲なんだけど、船を買ってね、迎えに行くんだって。漁師はやったことないから、船の扱いとか、そういうなのはなれてないんだけど、船員を雇ってね、船買って、国後に何回か迎えに行ったんですよ。 ―行ったんですか? 行ってんの。だけど、結局ね、港はないから、私らがいた村には。何か岸壁があって、ぱっと着いてね、そして乗るとかっていうんじゃないから。岩があるからね、変に近づくとね、岩に乗り上げたら、もう終わりだからね。 その着ける場所ってのはね、もう限られてるのさ。ところが、父親はやっぱり船頭だけど、島に着けないうちに、だから、迎えに来てるよっていうことを母親に何かで伝わったんだね。だから、母親、びっくりして、これは急いで根室行って、「そんなばかなことやめれ」って言うために、泡食ったらしいよ。 それで、ばあさん1人置いたっていう理由もあるんだ。無理やり、連れてこうとはしたんだけど、ばあさんは最後まで。結局、2年か、残って、強制送還されて残れんかったんですよ。備蓄はあるからね、米とか、味噌、醤油とかね、そういうのはあったんだと思うんだ。だけど、ばあさんは、あったから、そういう面は心配なかったんだけど、最後まで残るっていうことでね。 それで、味噌は樽だったんです、昔。ね、樽、樽。それで、ロシア兵が入ってきて、この中に何入ってんだと。あけれって言ったんですね。それで、母親がそこをあけたら、その味噌を見てびっくりしたんですよ。何かと間違ったんだよ。これわかるよね、何と間違ったか。悲鳴上げたんですよ。 ―排泄物だと思った。 ええ。それを大事にしまってると思ったと思うよ。もう悲鳴上げてね、そういう記憶あります。 2年後、そのばあさんも強制送還で、函館を通って、また我々と一緒んなって、またうちに入ったんですよ。また、うちで亡くなったんですけど。 ―お祖母さんは送還後もお元気で? はい。そうですね。帰ってくるまで2年だから、あと、またうちに行って、1年かな、やっぱ3年ぐらいだね。やっぱ気落ちしたんでしょうね。