【証言・北方領土】水晶島と国後島・元島民 佐藤健夫さん(3)
祖母は「墓参り行きたかっただろうな」
―生前、お祖母さんは国後島について話をしていたか? 高校時代っていうのは、何か年寄りと仲良くなれないでしょ、あんまり。何ていうかね、潔癖感とか何かでね、中学校…ちょうどね、高校時代かな、ばあさんが帰ってきて、一緒にまたうちで何年か。あんまり話す…そのころ、内心をね、聞いたっていう記憶ないんですよ。だけど、墓参りとかは行きたかったろうなと思うよ。 位牌とか何かはね、持ってきて、して、中標津のお寺に、またうちからね、もうそのころ、バス通ってないから、10キロ、しょっちゅう歩って、お寺まで来てね、拝んでましたね。だから、そういう昔を思い出しながら、ともに苦労した夫のことを思い出したと思うけどね。 ―晩年ですね。 そうそうそう。だから、昔の人はね、父親もそうだけどね、歩くのは苦になんないようなんだよね。へんぴなとこで生活したから、足腰は丈夫なようでしたよ。うちの父親も、今、根室のほうに槍昔っていうね、引揚者などが住んでた、そういう部落っつったら怒られるな、村があるんですけど、根室市に入るんですけど、こっから行ったら、厚床近くに槍昔って、多分標識に書いてあるんですよ。 そっから、やっぱり10キロぐらいあんですよ。だから、おやじは車もないしね、その槍昔から厚床の駅まで歩くったら20キロぐらいあるかね、そういうの、もう苦にしないで歩ってたから。昔の人はね、歩くっていうことは何も苦になんないようだね。ばあさんもそうだったと思いますね。
―佐藤さんもお父さん、お姉さんと同じ教員になられた。 そうですね。特別ね、教員になるっていう。自然とやっぱり姉…身近な職業ですもんね。それで、大した考えないうちに、そういう道に入ったっていうかね。小学校にも通算5年ぐらいいましたけど、38年(の勤務)のうち、ほとんど中学校ですね。 ―北海道内を転々とされた? いや、管内ですね。根室管内ですね。だから、根室市にね、20年、1、2、3、4校かな、4校で20年いました。中標津に13年くらいだな。あと羅臼だね。 ―根室にいたころは水晶島が望める納沙布岬が近い。島を見に行く機会はあったか? あったですね。ただ、あのころ、交通の便がね、悪かったから。根室から歯舞っちゅうところまで小さい汽車が走ってたんですよ。歯舞から珸瑤瑁までは4キロあるんだけど、そこは歩かんばならないのね。珸瑤瑁から納沙布までも歩かんばならなかった。だから、しょっちゅうは行ってないけど、2回目、根室、厚床、勤めたときには、たまたま。海、やっぱり懐かしいですもんね。海見たいし、海のかおりっていうかね、においを、潮のかおりかい、それを見たくてね、行ってましたけど。